JSHRM会員の誌面交流の場として、会員の方から寄せられた自己紹介や日ごろ考えていること、問題・課題意識などをご紹介します。

JSHRM事務局(アクティブ・ライフキャリア研究所 代表)星 明 氏

ゲスト:JSHRM事務局(アクティブ・ライフキャリア研究所 代表)星 明 氏


「会員の部屋」へのご招待(寄稿)と相成り、最初で最後のインサイトへの執筆となります。自身の振り返り「我が企業人事担当の履歴とJSHRMとの関わり」と題して、その断片を紹介します。個人記憶の記載となりますので多少年代に誤差有りであること、単語ならびに時代世相等は詳細説明いたしませんので、関心ある方はお調べいただき背景把握いただければ。
1社企業経験の人事担当者の動きから、企業活動で変わるもの、変えるもの、変わらぬもの、の変遷を感じていただければ幸いです。人事専門職というより、人事専任職のようなキャリアからの寄稿となります。

◆学生時代後半から企業社会人への選択

経営学部専攻の学生にとって、個人最後の専門を学ぶはゼミ選択であった。入学前から「人」に関して何か学びたい、漠然とした流れで経過。人事労務のゼミは一つしかなく、競争も激しく、2年間の学業成績からはエントリーをあきらめた。幸い部活の先輩から、卒論テーマは業績に関するものであれば、人事関連(考課・評価)も含まれているゼミが有ることを知った。卒論で人事関連が選べるが動機となり、そのまま「業績測定システムの研究」(主に経済性計算、管理財務系の原価管理がメイン)ゼミを希望し、3年生からゼミ生となった。これが人事業務への志望原点といえる。ゼミ教授は生産管理論の授業を担当されていたが、幸いにも当時としてはめずらしく企業の管理部長経験から(博士取得にて)教職へ転職されたので、ビジネス・実業の世界はよくご存知であった。中小企業診断士(1期生?)の資格保持者で就職活動の際には志望企業を分析いただいた。教授に判断いただいた内定企業を選択し、今日の自身があるといえる。(1950年生まれ、1974年3月大学卒・4月入社~2010年5月1日付け定年・2011年5月再雇用退職の履歴に。定年後2年間地方自治体非常勤従事)

卒論タイトルは「能力主義時代における人事考課」とした。当時、日経連の職務分析センター編纂による1969年発行の「能力主義時代の人事考課」があり、制度変更の企業背景と課題、そのための設計変更点と、今日の人事評価、職能資格制度等の基盤形成を知り、各企業の改定事例集とあわせ学ぶきっかけとなった。他に卒論参考図書は「人事考課と労務管理」「人事管理と行動科学」とした。
ゼミの副読本では、本来の専門書より経営学副読本としてのマネジメントの変遷に関心を持った。教授著「ハイモラールの人間学」が登竜門となり、ドラッカー著「現代の経営」、レスリスバーガー著「経営と勤労意欲」、マグレガー著「企業の人間的側面」と海外からの訳本であったが、当時企業の経営者や管理職の必読書に含まれていることを入社後知った。いずれにしてもHR(人間関係論)に関心が高く、自身のバックボーンとなり、行動科学の分野に興味を持ち始めた時代でもあった。

◆就職活動と会社人事担当履歴スタート

就職活動期間の変更年代となり1972年度までは3年生の春3月迄には、大手並びに業界によって内定が決まる時代であった。我々の時代は、この青田刈り(3年生の12~2月内定)から4年生になってからの活動変更となり、1973年5月会社訪問開始、就職内定は7月からとなった。商社・金融業界は相変わらず選考の動きは速かったが、製造業界はほぼ変更後の流れを遵守していた。7月第1週に各企業とも内定通知が出た時代であった。
就職活動をメインに、生意気にも就社活動はしなかった。人事という言葉は使わず、メーカー希望であったので「労務」を希望職種として会社訪問に臨んだ。幸いにして7月前に1社、7月第1週に2社から内定いただき、当時は電話(下宿の大家さん呼び出し)ないし電報での可否連絡の時代であった。当時は筆記試験があり、今思い返せば懐かしい思い出に。

入社前に連絡が有り、勤務地は東京工場である旨通知があった。配属組織名はなく、経理か、勤労(労務)か、ひょっとして生産管理?と不安と期待との入社前の心境であった。

入社1974年はオイルクライス(第1次石油ショック)、春の賃上げは史上最高の対前年比30%アップだったが、翌年の75年春闘は一気に昇給もダウン、賞与も軒並み昨年度を下回る流れとなり、入社前の昇給アップ予想とはならず、二桁昇給時代は終わった。また当時、「春闘」時期は首都圏の国鉄・民鉄による交通スト影響は年々拡大し、そのため通勤移動時間も半日を要しての時代で(当時は今と違い、休まない・休めない、の企業が多く)この首都圏での体験はすでに定年退職した層のみが知る「賃上げ」闘争物語かもしれない。

◆1980年代~2000年代の人事トレンドから

東京工場から第1回の異動で1977年に本社人事部(教育G:社内報と新入社員教育担当)へ、そして(人事G:採用、評定、表彰、異動昇格事務の担当)で一通りの人事業務を経験(昇給・賞与企画、給与事務等は担当せず)。本社勤務約7年弱の1984年からは和歌山工場勤労課へ異動(工場組織は係長が有り、拝命赴任へ)し、労使関係並びに工場の旧い体質(経営)革新運動等、勤労として関与。組織の大きい工場であったので管理者に意思疎通を図るため3年ぐらい毎年和歌山管理者研修を実施し、課題共有を図りフラット組織の運営基盤づくりとした。また工場内労組(工場事業場単組活動)との取り組みも印象深いものがあった。お互いの「場」づくりへ、オンとオフとで理解に努めたものでした。
会社外活動として、和歌山県経営者協会(各県別に協会有り)の「労働専門委員会(通称:労専部会)」の月1回集会は何かと勉強となる機会だった。全国企業と地元企業の人事労務担当とは企業の枠をこえて懇意となりました。

この年代、バブル時代でもあった。世相に関係なく愚直にこれからの経営革新を図っていった企業に所属していたことが、今となっては先見ある会社であったことを自分が実感している。

時代は何かと変わる年代であり、この時期はこれからの雇用のあり方(キャリア発揮)としての「エンプロイアビリティー」、組織開発・企業文化としてマネジメント「ホロニック(=ホロン):全体と個の意」や「リエンジニアリング」手法の紹介、専門職キャリアとしての「クラスタースペシャル」、労務問題は残業時間短縮へ、「週40時間労働基準法の改定と年間労働1800時間対応」への課題、そして年功序列(勤続序列処遇?)から評価は「業績」中心への制度変更といった対応に追われた時でもあった。

私のいた会社も90年半ば以降は毎年評価制度を改定修正していた。結果、世界標準に準拠導入した役割職処遇を導入し、管理職を皮切りに評価処遇変更を図り、全社一律基準体系から、部門特性に応じた「部門別人事体系」の評価処遇へ分化していった時でもあった。職能等級資格制度からコンピテンシーの導入や「役割等級制度」へ、ないし部門別人事への制度(カンパニー制度)普及もこの時期の人事改革・変革到来を象徴するものであった。

将来人材(人財)育成が叫ばれたのもこの時期、サクセッションプラン、そのための後任候補者育成研修体系化と人選、「人事委員会」の設置により個別人材審議と人事処遇に特化した定例会議(担当役員と人事との調整・意思決定機関)が定着した時代でもあった。
1990年和歌山から本社へ異動し、人事委員会の事務局担当として、当時担当の役員の方々が、担当分野の人材をどう観ておられるか、知る機会となった(口外は出来ませんが…)。
このような流れから、2000年の新人事制度導入と自社が求める「人材像」「人材開発」の新たな提示に繋がった、ともいえる。

◆2000年以降~企業文化の伝承と個別人事配慮(キャリアフォロー:キャリアカウンセラーの普及)~そして定年・再雇用(非常勤)

1997年より部長拝命にて、コーポレート教育、人事を担当後、2002年から部門人事担当として研究開発部門の人事責任者へ。RD組織は5地区に拠点を構え、部門統括のもと、研究所長・室長を組織長とし、各室長の配下に研究グループリーダーをもって研究運営を図っている。多様性に富んだ人材の集合であり、個人差のあるマネジメントや個別問題等に追われることも。
室長との個別協議は定期的に実施し、マネジメントの情報交換を通じ、個別課題ないし部門共通の課題とこれからの啓蒙を図った時でもあった。また、研究所内の評定調整には同席し、評価制度の定着普及に努めた。まさにタレントマネジメント候補対象者を知る実践の場であった。

定年前の2006年にコーポレート人事部門に異動と相成り、高齢者雇用安定法第1次の定着へ、管理職から再雇用する仕組みづくりを拝命。現行法案と異なり、会社として再雇用対象者を定年1年前に告知する体制の整備に努めた。管理職から再雇用対象者の導入を図り、2年経過後に一般社員へも再雇用対象を拡大した。並行してライフキャリア機能の普及を担当。結果、人生90年時代としてその真ん中の45歳を対象とした「ライフキャリア・デザインセミナー」を開催(希望者は全員研修へ)。60歳定年から~65歳雇用時代への対応、平均寿命90歳以上(現在は100歳だが)を想定した自己管理のプラン機会をした。

2010年5月定年2011年再雇用(SP;シニアパートナー)非常勤を退任し退社へ。
会社時代を一言で振り返るならば、企業文化、組織運営・マネジメントは自由闊達の風土により、自身の性格とあわせ定年まで勤めさせていただいたこと。会社独特の文化、「絶えざる革新」は変わることに躊躇せず、変化対応は当たり前?の進取の気性があったからかもしれない。
他社では通用することのないひとりの人事担当の歩みを紹介させていただきました。
(1974年花王石鹸株式会社入社【現、花王株式会社】からの履歴紹介まで)

最後に、
強いて人事を語れば、私の人事観のベース(持論)は、行動科学に関連した領域からがヒントとなる。要旨〈キーワード〉は以下のとおり。
☆ダウィーンの「進化論」とドラッカーの「企業は人なり」がキー。
☆直感と感覚(論理思考、表現力が乏しいので…)の重視。
☆感性の発揮と受容
☆理性と感情のコントロール。
☆関係性の質の追求。
⇒*人事は科学的に証明できない。

人事担当者は他社(他の世界)を知る「百聞は一見にしかず」の機会を自ら作り、会社外のネットワークづくり(トレンド把握も含む)と研鑽に励むことから、新たな学びを得る、という体験を持って欲しい。
あるべき姿をトップ、管理者とともに普及させる役割が人事にあるのではないか…。
将来予測は難しいが、Going Concernとして継続する企業へ、屋台骨を構築していって欲しい。企業(=人間集団)の将来をにらんで…。

◆番外:JSHRM設立準備委員会から今日までの関わり

最後に、当協会との関わりに触れる。
2000年4月に「日本人材マネジメント協会(JSHRM)」が開設。4月21日には「協会設立総会・記念シンポジウム」を開催。パネル討議『新たなる挑戦~戦略的ビジネスパートナーとしての人事を考える』と題して大がかりに実施した。私も当時の幹事会若手メンバー?としてシンポジウムに登壇し、部門別人事への移行や会社人事の対応のあり方などに触れた記憶がある。

協会設立の背景は会員の方は多少ご存じかと。アメリカのSHRMから現連盟機構が有るのに対し、日本の団体がAPFHRMに加入していないことから、生産性本部に団体機関設立支援の要請があり、1998年下期?から約1年間「設立準備委員会」が設けられ、当時のJPC賛助企業数十社にお声がかかり、(当会社にも打診有りで、当方が準備委員会のメンバーに。)会員募集は協会開所半年前の1999年10月からスタートに。協会開設前に会員エントリーされた方は、現在も当方を含め数名おられ、2000年4月以降の初年度入会員の方も十数名おられる。
設立準備委員会のメンバーは各社部長以上のそうそうたる方々20名前後で構成され、JPCからの事務局専任担当者で協会特色と運営方針、事業開催等、内容検討と開設総会シンポジウム企画を議論し、開設に至った。

協会設立時の方針、施策検討の中から、当時の事務局案「JSHRM活動参加にあたっての協会会員の心得」は時代が変わっても受け継ぐ指針となっており、協会会員並びに役員(正会員)は遵守すべき主旨と思う。7項目(使命・遵守・自己啓発・相互利益・自主性の保持・地位の不正使用の禁止・守秘義務)は常にお互い心して対応したいものである。

協会設立準備委員会メンバーは、協会開設後も幹事会メンバーとして「幹事」拝命で協会運営に努めてきた。初期のメンバーの方々もほとんど退会されている。私自身、幹事であっても毎回幹事会に同席したわけではない。当時は本業ありきで、そちらを優先していたのも事実である。
設立準備委員会から幹事会で継続審議していたのは、当時SHRMの「人事担当資格認定」の日本版資格発行の実施だった。合宿検討会もしたが、実施不可と相成り、SHRM資格の試験会場を設ける許可を得、現地試験を日本で数年間開催した。毎年数名受講され、毎年1名程度の方が資格取得されたが、受験者もわずかとなり廃止となった。

協会体制スタート時は代表幹事、常任幹事、幹事の3区分で構成し、事務局はJPCの方々で対応いただいた。スタートから5~10年で初代役員を退任される方も多く、その都度新たな方で幹事会を形成してきた。個人という流れから複数での最終意思決定者として代表幹事・副代表幹事で意思決定を諮る時期もありました。
2012年度より常任役員、執行役員に区分し、会長職を新設。事務局も会員からの専任として事務局長設置となった。〈2012年6月~2018年3月;初代拝命へ〉
従来から日本生産性本部傘下の任意団体だったが、2018年4月からのNPO法人認可とあわせ、生産性本部からは独立した活動を開始している。

私自身、協会との関わりは全てにわたり詳細に入り込んでいたわけではなかったが、幹事・副代表幹事・代表幹事を拝命(代表幹事半年後に2012年度からの体制変更にて代表幹事は退任)し対応させていただいた。(体験も大切)。主な対応は下記。

  1. 人材マネジメント基礎講座スタートに当たり、企画検討メンバーとして参画。開講と同時に講師を担当(2002~2008年)、今は無き「組織管理」「組織開発・風土文化」の2講義を担当。
  2. 基礎講座スタートから1年遅れて?アドバンス講座スタート(土曜日実施、1講義2名講師態勢)。開始5年後中止に。現会員の中島さんとペアで授業担当。
    →〈2010年~2014年度:中央大学大学院ビジネススクール人的資源科目に登用:科目履修生として受講者を募る〉
    *アドバンス講座受講修了生の方々が執行役員で活躍中。
  3. 年次コンファレンス10周年記念大会の企画補佐。
  4. リサーチプロジェクト第1次研究(3年間)メンバーに参加。2年間のみで自動離任へ。
    *現役時代に関わった「ライフキャリア」・チェーンがテーマタイトルに
  5. 会員事務局長専任担当2012年6月~2018年3月:これといった基盤形成できずに3期6年をもって現野村事務局長へバトンタッチ。

最後に、
ごく普通のサラリーパーソンの過去紹介に違和感をもたれる世代の方も多いかと推察します。人事の使命は制度づくりもさることながら、基調は経営人事として、「新たなる挑戦~戦略的ビジネスパートナーとしての人事を考える」の繰り返しのような気がいたします。
ますます、個を活かす仕組み・多様性マネジメントの発揮に人事の真価が問われるのではないでしょうか。そのための人事のプロづくりが当協会の使命かと。

当方も、残り人生、自身のライフキャリアの充実に、これから努めたく…。
掲載機会いただきありがとうございました。

以 上