このコラムでは、日本で長く続く伝統やそれを守る人々を取り上げて紹介をしています。
 今号では2018年9月25日(火)に、生産性本部セミナールームにて行われたInsightsセミナー「能楽が果たしたイノベーション-心と体に効く能楽」をレポートしたいと思います。講師は、宝生流第20代宗家宝生和英(ほうしょうかずふさ)氏。宝生流は、大和地方に存在した4つの猿楽(大和4座)のうちの一つ外山(とび)座に由来し、室町時代、江戸時代と幕府の庇護を受け発展してきました。明治以降は、一般市民にも開放され、多くの経営層や能楽愛好家たちに愛されてきています。
 若干22歳で宗家となり、今年10年目を迎える宝生氏に、能楽の果たしてきたイノベーションを話していただくとともに、自身が挑む「アートマネジメント」という経営手法をご紹介いただきました。能楽を代表する一人、若きリーダーの情熱と人柄に魅了された聴衆の姿が印象的でした。

(参考)

宝生流第20代宗家宝生和英 氏

【セミナー講師】宝生流第20代宗家宝生和英(ほうしょうかずふさ)氏

プロフィール
宝生和英(ほうしょうかずふさ)
1986年東京生まれ。父、第19世宗家宝生英照に師事。宝生流能楽師佐野萌、今井泰男、三川泉の薫陶を受ける。1991年能「西王母」子方にて初舞台。2008年に宝生流第20代宗家を継承。これまでに「乱」「石橋」「道成寺」「翁」、一子相伝曲「弱法師雙調ノ舞」「安宅延年の舞」などを披く。伝統的な公演を基本に、現代社会においての能楽の価値を創造し提案をする。海外ではイタリア、香港にて活動。能楽を活用したアートマネジメントを展開している。これまでにミラノ万博、ミラノトリエンナーレ万博に参加。ジャパンオルフェオ、ミラノスカラ座シンポジウムなど日伊国交樹立150周年事業に多数参加。2016年には文化庁より東アジア文化交流使に任命され、香港に赴任し、毎年香港大学との交流事業を展開。2017年には日本バチカン国交樹立75周年バチカン勧進能を制作・主演。2018年ローマ・フィレンツェにて公演。

◆若き家元の誕生で

講師の宝生流第20代宗家宝生和英氏

 会場の前に立つ講師の宝生和英氏は、現在32歳。能楽と言う世界では非常に珍しく若い家元となる。不慮の出来事のために、家元不在を経て10年前に家元として就任したが、就任当初、まわりは80歳代のベテランの方々ばかり。その中で、何をすれば良いのか?と周囲に問いかける日々を過ごす。答えは、「何もするな」と言う厳しい環境の中、自身のこれまでを振り返っていただいた。

 お話の前半は、現在のイノベーションについて。そして、後半は、能楽が経てきたイノベーション史を中心に話が進んだ。


 まず、簡単に、能楽を構成する役割についてお話をいただく。
立方と言われる能楽師には、「シテ方」「ワキ方」「狂言方」とあり、
「シテ方」は、物語の中心となり、宝生流はここに所属する。
「ワキ方」は、水先案内人として、ストーリーテーラーの役割を担う。能面をつけることはない。
「狂言方」は、能楽師狂言方が本来の呼び方で、コメディの部分を担当。
「囃子(はやし)方」には、4つの楽器を扱う人々がいる。「笛方」「小鼓方」「大鼓方」「太鼓方」。そして、5つ目の楽器は、「謡(うたい)」。脇に地謡の人々が座り奏でる。この5つは、雛人形の「5人囃子」に対応する。

能楽師の役割について

能楽の流儀について

 シテ方の流儀は、四座一流と言い、大和猿楽四座と言われた中の外山(とび)座が宝生流に、結崎(ゆうざき)座が観世流に、坂戸(さかと/さかど)座が金剛流に、円満井(えんまんい/えまい)座が金春流に、それぞれ受け継がれている。そして、江戸時代になって、金剛流から喜多流が生まれ現在の5つの流派になる。となると、能楽では、5人の家元しかいないこととなる。

◆宝生さんが臨む人材のしくみ

 家元を継ぐことになり、宝生氏は、家元の仕事を見つめ直した。それぞれの流派には、お金をもらって生活をするプロと、お金を払って習うアマチュアとに大きく分かれるが、弟子が増えて初めて所属する人たちが潤い、そして、会全体が潤い、最後に家元が潤う。舞台はベテランの能楽師がいれば継承できる、では「家元は果たして必要なのか?」と自ら問い直す。自身が出した結論は、家元は、みんなの利益を守り、管理する人が必要だと言うこと。「自分の内情をさらけ出し、自分のハッピーは、あなたたちのハッピーだ」と言うことをはっきり示した。業界をよくするために、新しいルールを作り、今までのルールを改善し、お互いの利益を共有することに努める。そのために、家元になって最初の5年間は、「能楽師が何を望んでいるか」を、ご自分なりに把握していったと言う。そして、残りの5年間は、「どうしたら能楽師たちをハッピーにできるか」を実行するために費やした。

 能楽師の悩みを解決し、目的と目標の共有をして、成果を出してゆくようにコンサルテーション的な役割を担った。それまで、個人で動いていた活動を、例えば、3人1組で動くようにして人材開発をしていく過程を、地域活性化の活動を進めた事例などを使って紹介していった。

◆宝生氏にとってのイノベーショ~アートマネジメント

 家元の仕事というのは、プロの指導、能楽師としてプレーヤー、演出家/舞台監督、能楽師のマネジメント、アートマネージャーとして新しい文化の価値を作ることなどが考えられると言う。その中で、家元にも得手不得手があるので、自分はどの役割に重点を置いて活動していくのか、自分自身を見極めた。その中で、アートマネジメント(文化の価値を作ることーイノベーション)について掘り下げていった。

 「能楽を観ることで社会がどう変わるか」、「能楽は誰のために必要なのか」を考えることが「アートマネジメント」。文化は決して生きていくために必要なものではなく、伝統文化だから必要だと言うわけでもない。

 一代前までは、良いものを見せていれば、人は入ってくれると言う風潮があり、「チラシを配っていれば人が呼べる」と言う思考停止の時代があったと言う。その時代の反省から、「能楽を哲学した」、つまり、それまで当たり前であったことを見直した。例えば、「なぜ、能舞台に上がる時に、足袋を履く必要があるのはなぜか?」と言うと、「特別な作りで建てている能舞台の修繕には高額な費用がかかる。素足でその能舞台に上がってもらっては、足の油分が能舞台を傷つける。靴下には油分を含む成分があり、足袋でないといけない」など。

 その上で、宝生氏は、能楽の特性をセグメンテーションした。そこで考えたのが、「日本的オペラ」と言われる能楽は「エンターテインメント」と言う分類に入れるには無理があると言うことであった。「エンターテインメント」に必要なのは、大きな感情の変化であり、大きな感情の変化を苦手とする能楽には、最も不利な分野である。反対に「エンターテイメント」には、会場の一体感に加わらないといけないと言うことが圧力となるリスクがある。一方、能楽は、「大きな感情の変化を抑える」強みがあるのではと考えた。つまり、一定のリズムを与え、心のバランスを整える働きがあるのだ。例えば、美術館に行って美術品を鑑賞するとき、人は自由に鑑賞できる。神社仏閣巡り、刀剣マニア、城マニアの人達は、明確な目的を持って能楽にくる。

 デザイナーがパーソナルな時間を作りに、能楽を見に来たり、文章家が文章を考えに来たり、時差ボケを直しにくるビジネスマンもいると言う。つまり、「こう楽しむと言うことができない」ことがむしろ、様々な楽しみ方をすることを可能にしているのかもしれない。

 その中から、どうしたら観客を増やして行けるか?と言う課題に対して、行った事例をご紹介いただいた。能楽のストーリーを朗読した朗読公演、スカイツリーの企画で行った20分の能映像など、それまで、一見能楽と関係ない分野の人たちが、それらのイベントに足を運んでくるようになった。「アートマネジメント」を通じて試みる数々の宝生氏の挑戦に、熱心に聴衆は耳を傾けた。

◆「能楽のイノベーション史」~中身を変えずに使い方を変えてきた能楽

能楽イノベーション史

 後半は、「能楽のイノベーション史」に話が移った。非常に興味深いことに、「能楽とは、中のコンテンツ自体を変えることなく、使い方を変えてきた」と宝生氏は話し出した。それが、結局、イノベーションを繰り返してきたと言うことに繋がると言うのだ。

 西暦600年頃、渡来人の秦河勝(はたのかわかつ)が大陸の技術を日本に伝え、日本が発展してゆくことになる中、天災国である日本では、いかに心を落ち着けるか、が課題であった。このために、笑いを求め、心を落ち着かせる「猿楽(さるがく)」が生まれてきた。猿楽師とは、大道芸人、手品師、ものまねなどを行う人々で、国に公務員として雇われた猿楽師たちは、笑いを使って人民の心を落ち着かせようとした。しかし、財政難の際に、最初に職を失った人々がこの猿楽師で、放浪をして各地を巡ることとなる。ここで猿楽師に目をつけたのが寺であった。その頃、各地に広がっていた寺が抱えていた悩み、それは説法中に人々が眠くなること。この眠気覚しに猿楽が使えると、寺がこの猿楽師のパトロンとなる。一方、平安時代に生まれた「田楽」。一定のリズムを保って効率よく田植えをするために、歌を使って集団で田植えを進めた。

 この二つの「猿楽」と「田楽」が合わさり、室町時代に観阿弥、世阿弥親子によって大成された「能楽」。実用性が高かった田楽と、宗教性が強かった散楽から派生し、芸能の要素の強い猿楽とから、教養価値を作り出すと言う「イノベーション」が起こった。つまり、アートマネジメントが発生した。

 一方、外国からの影響を能楽が大きく受けるのもこの頃だ。その例として、次のことがあげられると言う。
 中国から影響を受けた建築文化により、能舞台が出来上がってゆく。
 中国から伝わった文学や寓話を取り入れ、能となった。
 絹織物が中国から伝わり、能装束が生まれていった。
 シルクロードを通じて、現在の能装束に見られる文様が使われるようになった。

◆能楽のイノベーションが盛んな時代

 1500年代に現れた三人の武将たち。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。
この三人の武将は、能楽と言うものを異なる目的で使ったと言う。

 織田信長は、死と常に隣り合わせる乱世において、死の恐怖を取り除く「マインドフルネス」としての能楽の価値を見出した。

 豊臣秀吉は、自分の功績を能楽に載せて社会に広めるために、能楽をプロパガンダとして使った。例えば、能「明智討(あけちうち)」を作成するなど、文化を使って自分の力を周りの武将たちに示した。

 徳川家康は、戦に明け暮れていた武士たちに「代理戦争」として、能楽を奨励した。つまり、良い文化を持ったところが勝つと言う風潮をもたらすことで、大名たちは能楽師を抱え盛んに競い合った。文化競争をさせることで、反乱を抑え、お金を使わせたのだ。

 ほんの100年の間にトップが変わるだけで、価値が大きく変わっていったことが注目すべきことだと考える。ちなみに、能楽は全く変わらず、使い道が変わっただけであった。

熱心に聴衆に語りかける宝生氏

 その後、江戸時代は、平和な時代を長く続けるためにと目的が変わってゆく。街には、千人もの収容ができる施設が建てられ、そこに集まる人の間で、お金を集めたり、交渉の場所として使われた。また、文楽や歌舞伎は大衆文化として盛んになる一方で、能楽は芸能から教養化されることで、歌舞伎文楽と能楽の価値や基準が分かれていった。この頃は、今のような基準が一つ(例えば、能楽、歌舞伎、文楽がエンターテインメント)ではない時代であった。では、なぜ今のようにエンターテインメントと言う基準が一つになっていったのだろうか、と宝生氏は続ける。

「基準が一つとなっていったのは、明治以降」。

◆明治以降~変化のない芸能になった能楽

 明治政府を立ち上げた人々は、西洋文化を取り入れることを熱心に行った。ヨーロッパのオペラに対応して、日本のオペラを作りたいと考えた岩倉具視卿。いつでも能楽公演ができる能楽堂が建てられ、屋外で行われていた能楽が、屋内で行われるようになったのはこの頃でもある。しかし、同時に、能楽が大切な要素を失うことになる。それは、太陽の光や四季などの自然からの恵みであり、例えば、自然の光があたる角度によって能面の表情が変わる特徴であった。自然の変化を取り入れていた能楽が、変化のない能楽堂と言う場所に入ってしまったことで、能楽が変化のない芸能となっていったと言う大きな転換となった。

講師の話に熱心に耳を傾ける参加者の方々

 しかしながら、その後、第二次世界大戦を経て、財界のトップたちが競って能楽を習い、人に勧めるなど、能楽にとって豊かな時代を迎えることになるのも事実であった。黒沢監督などが能楽からインスピレーションを得て映画を作成したり、財界トップの人々が不動な心を持つために能楽を自らしたり、白州正子さんが能楽を紹介することで、社会での能楽のステータスは上がってゆく。能楽にとって良き時代でもあった。ただ、ここに一つの落とし穴があることを無視できない。それは、能楽師たちが白洲正子さんの言うことをしていたらいい、とイノベーションを止めてしまった時代であったことだ。ここで起こった能楽の悲劇は、「人(人材)を残せなかった。つまり、時代にあった白洲正子さんのような人を残せなかった」ことにあると、宝生氏は言う。


◆これから能楽が目指すこと

 このような反省から、これからの能楽が目指すものは、新しい価値の創造。例えば、「アンビエント(環境)の創造」ではないかと考える。例えば、能楽がいかに生活環境に根付くか。また、来ていただく方に、これからの働き方はどうするか、など、自分で何かを深く考える際に、能楽を観る時間を使っていただければと考える。更に、時代を超えても内容の変化がない能楽は、孫とおじいちゃんが会話できる材料にもなる。つまり、世代を超えた人と人の繋がりが生まれる環境も提供できる。と言うように、能楽ならではの役割があるのではと言う。

 これからの能楽について、宝生氏はこう結んだ。能楽を担う我々は、能楽を通じて人と人をつなげること、そして、文化を理解できる人を育てていくことが重要であると考える。

最終金曜日の夜に行われる夜能も好評

 セミナーの後

 聴衆から寄せられた声の中で印象的だったのが、宝生氏自身への皆さんの強い関心であった。「どうしたら、あの人材が育ったのか」「会社の中に欲しい」「宝生氏自身に興味を持つ」などである。この魅力溢れる若きリーダーの今後の動きから、益々目が離せない。

文:中田 尚子(Insights編集部員)