本稿では、小説の中に描かれた職場や仕事を紹介し、人事とは何かを探ってみたい。もちろん、小説はフィクションである。しかし、優れた文化的コンテンツの中には、現実の社会を鋭く切り取り、働く人々たちの潜在意識を顕在化させてくれる作品がある。人事担当者として専門知識やスキルを身に付けるだけならば、小説など読まずに、ビジネス書を読めばよいのだろう。ただし、最近のビジネス書の中にも、一見ビジネスとは遠いアートや文化が紹介されることもある。働く人たちの感覚や感情に近づくための教養力が求められているとは言えまいか。小説を読みながら人事について考える時間もきっと必要だと思うのである。

法政大学キャリアデザイン学部教授 梅崎 修 氏

執筆者:法政大学キャリアデザイン学部教授 梅崎 修 氏
大阪大学経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)
専門領域は労働経済学、教育経済学、人事組織経済学
近刊は『大学生の内定獲得: 就活支援・家族・きょうだい・地元をめぐって』(法政大学出版局)


◆宿痾としての残業

 日本の職場における「変わらない、治らない人事問題」として長時間労働がある。これまで日本では、数々の労働法制や人事制度が導入されたが、長時間労働は一時的に鎮静化したように見えても、それらの新しい法や制度の中でも組織の病巣として潜在化した。

 もちろん、誰もが長時間労働も過労死も日本企業の問題だと答えている。しかし、その正否を問うだけでは、問題は解決しないのである。

 なぜ、そもそも「サービス残業」という現象が生まれるのであろうか。自己選択としてのサービス残業の心理的メカニズムを分析できなければ、日本組織の宿痾は完治しないのではないか。

 多くの研究が、事実の数量的把握とその問題の批判だけに止まるのに対して、一つのフィクションがその心理メカニズムに肉薄している。TVドラマにもなった『わたし、定時で帰ります。』という小説である。

 小説の主人公は、ソフトウェア会社ネットヒーローズに勤める東山由衣さんである。彼女は、仕事はできるが、定時で帰ることをポリシーとしている。そして、行きつけの中国料理店でハッピーアワーのビールを飲むことを日課としている。仕事人間たちの職場にあって、主人公は「変わった人」と思われている。定時に帰るというだけで「変わった人」になってしまう事実が日本の会社の変わったところなのである。

 もちろん小説の中には、由衣以外にも定時に帰りたいという願望を持つ人が登場する。しかし、その人たちはその願望を公には口に出して言わない。同僚の女性は、「だって、東山さんって、空気読めない人じゃないですか。どんなに同僚が修羅場ってても定時で変える人じゃないですか。」と期待する。つまり、彼女が休めば、自分も大ぴらに休めるというわけである。

 実は、由衣さんが定時に帰るのには理由があった。まず、彼女の父親は、完全な仕事人間で全く家に帰って来なった。「会社ってのは大きい家族なんだよ」と思えていた旧世代の父親とは対話が成立しない。そして、彼女の元婚約者で、婚約破棄の後、彼女の会社に転職してきた種田晃太郎もまた、その父親を超える仕事人間であった。彼女は、彼らの、否、日本社会全体の「仕事だけの人生観」と対決し、自分らしい人生観を「定時に帰る」という行動で示そうとしていたのである。

◆凡庸な悪が生み出す職場の修羅場

 由衣さんの孤独な自由行動は、福永という晃太郎が新卒で入った会社の元社長が、自分の会社を売却し、役員の紹介で彼女の会社に入社してきた時点で暗雲が立ち込める。この福永という上司の人物造形だけでも、この小説を読む価値はある。この男は、お客にいい顔をして無理な受注を受けてきたくせに、上司も部下にもいい顔をしようとする。でも、自分は何もしないのだから、最後には部下に丸投げするしかない。その上、自分が原因なのに、まるで被害者のように振る舞う。由衣は、次のように福永を批判する。

「嫌なことから逃げたいと願う、ただ普通の、凡庸な、どこにでもいる人間です」

 誰でにもいい顔をしたいのは、傷つきたくないというエゴイズムである。そのような凡庸な人間の悪が職場を修羅場に変えていく。その過程がこの小説ではリアルに描かれている。

◆仕事は仕事の対話で変わる

 無能かつ凡庸な悪の上司がいるならば、そんな会社は辞めてしまえばよいではないかという批判もあろう。しかし、この小説の登場人物たちは、ボロボロになりながら働くことを止めない。この小説は、主人公が長時間労働から如何に抜け出すかという物語ではなく、長時間労働する人たちを如何に変化させるかという説得物語なのである。

 例えば、就職活動に苦労してようやく拾ってくれた会社で、自分の居場所がなくなる不安を抱えている就職氷河期世代の同僚がいる。休むことがそのまま自分の無価値につながるという不安は由衣との対話の中で徐々に薄れていく。

 また、双子を出産後すぐに復帰し、バリバリと働こうとする先輩もいる。彼女が目指すスーパー・ワーキング・マザーに対して、由衣は、次のような冷水をぶっかける。

「一人でお湯も沸かせないような昭和の男の真似して、どうすんですか?」

 最も手ごわい仕事中毒者が晃太郎であろう。彼は、どんなに無能な上司であろうが、仕事から逃げない優秀な男である。しかし、その仕事観は狂っている。彼は「追い詰められば追いつめられるほど、充実した気持ちになるっていうか」と言う。

 由衣は、恋人の立場から晃太郎を説得することを失敗している。彼女は、もともと自分だけが定時に帰られればよいと思っていたわけではない。会社のみんなが定時に帰るにはどのようにしたらよいだろうかと考えていた。しかし、恋人の長時間労働を止めさせることができなかったのだ。

 元婚約者の晃太郎が、元カノの会社に転職し、彼女と一緒に働きたいと希望した隠された理由では、もう一度変われる自分に賭けてみたいと思ったからだ。彼は、彼女と一緒の働きながら生まれた新しい気持ちを次のように説明する。

「仕事は―仕事っていうのは、もしかしたら、命なんて賭けなくてもできるじゃないか。そっちのほうがずっとエキサイティングで、難しくて、挑みがいのあるゲームなんじゃないかって。」

 この小説の構造は複雑である。仕事と余暇を対立させて後者の観点から前者を否定しているのではない。我々は、勝手に歪んだ意味を仕事に押し付けて長く働いているのだが、そのような仕事の問題は、一緒に仕事の中での対話で変わっていくのである。