本稿では、小説の中に描かれた職場や仕事を紹介し、人事とは何かを探ってみたい。もちろん、小説はフィクションである。しかし、優れた文化的コンテンツの中には、現実の社会を鋭く切り取り、働く人々たちの潜在意識を顕在化させてくれる作品がある。人事担当者として専門知識やスキルを身に付けるだけならば、小説など読まずに、ビジネス書を読めばよいのだろう。ただし、最近のビジネス書の中にも、一見ビジネスとは遠いアートや文化が紹介されることもある。働く人たちの感覚や感情に近づくための教養力が求められているとは言えまいか。小説を読みながら人事について考える時間もきっと必要だと思うのである。

法政大学キャリアデザイン学部教授 梅崎 修 氏

執筆者:法政大学キャリアデザイン学部教授 梅崎 修 氏
大阪大学経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)
専門領域は労働経済学、教育経済学、人事組織経済学
近刊は『大学生の内定獲得: 就活支援・家族・きょうだい・地元をめぐって』(法政大学出版局)


◆元祖、サラリーマン小説

 サラリーマン小説の元祖と呼べる作品に佐々木邦の『ガラマサどん』(講談社)がある。佐々木邦と言っても、多くの人は名前すら知らないと思う。彼は、かつての大人気作家で、日本におけるユーモア小説の第一人者である。

 サラリーマンという言葉が一般的に使われるようになる時期は、工業化が進展し、大企業組織が生まれた1920年代以降である。吉田辰秋著『サラリーマン論』(大阪屋号書店、1925年)、前田一著『サラリーマン物語(正・続)』(東洋経済出版部1928年)という著作がこの言葉を広めたと言われている。ちなみに『ガラマサどん』は、1930年の1年間、当時の大衆娯楽雑誌「キング」に連載された小説である。

 ほとんどの人がサラリーマン・ウーマンになっている現代とは異なる。農家であったり、日給の工場労働者であったりする場合が多かった時代に、月給(サラリー)を貰えるサラリーマンは高学歴のエリート層だったと言える。そして、この新しい層は、新しい都市文化の担い手でもあった。

 日本の全労働者から見るとサラリーマンは一部である。しかし同時に、多くの人たちの憧れの仕事と生活でもあった。このような憧れのサラリーマンの生態を独自のユーモアで描いたのが、この小説である。

◆サラリーマンの不安と朗らかさ

 高学歴のエリート層といえども、サラリーマンは雇われているという不安定な立場にいる。戦前のように景気の変動が大きければ、いつ解雇されてもおかしくはなかったのである。 主人公の熊野氏も、高学歴でありながら仕事に関しては不遇で、何度も会社を辞めざるを得なかった。「失業の名人」であると自称している。

 ただし、どうやら熊野氏の失業は運だけの問題ではないようだ。何かと面倒を見てくる先輩の三好さんによれば、熊野氏は、小才が相応利くのだが。斜めからものを見るという気質も持っている。つまり、三好氏が言うように熊野氏には「反抗心が自然に現れる」がゆえに、会社という世間でうまく立ち回れないのである。

 転職を続けた熊野氏が、最後に潜り込んだ先が、ワンマン社長が一代で築き上げたビール会社であった。ガラマサどんとは、その社長の仇名である。ガラマサどんは、自らの立志自叙伝を作成するために、熊野氏を作者に指名した。文才があるという噂を聞きつけたのだ。結果的に、中途採用者の熊野氏は、社内でも評価されるようになるのだが、同時に社長のおかしな言動に振り回されることとなる。ただし、ガラマサどんは、嫌なパワハラ上司ではない。ユーモア小説の中では、部下からはその稚気や奇行が愛されているとも言える。聴きたくもない下手な趣味の芸事(義太夫)にも付き合わされて迷惑しているが、部下たちも心底、社長を嫌だと思っているわけでもないらしい。「長いものには巻かれろ」とぼやきつつも、過度なストレスを溜め込んでいるようにも見えないのだ。この小説の中には、会社という村の中での楽しいドタバタ劇、また独自の朗らかな雰囲気がある。

◆起業家からサラリーマンへ

 この小説のユーモアの秘密は、世代間コミュニケーションのギャップにあると考える。社長と部下は会話をしているが、その「意味」は全く通じていない。だから、その会話が可笑しいのである。ガラマサどんは、明治人として「我輩の若い頃は世の中が混沌たる戦国時代だった」と回想する。また、自叙伝を書く目的も、本人の目線からは以下のように述べられている。

 「明治大正昭和にわたって、こんな桁外けたはずれの男が真の少しばかり国家に尽くしたということをいささか後世に伝えたいと思ってな」

 むろん、この愛すべきガラマサどんの人生経験は大いに誇大され、何やら具体性を欠き、その思想に深みはない。しかし、彼の世代では、営利の事業を起こすことが個人の私益ではなく、公共(ここでは国家)のためという社会認識があったことだけは事実であろう。明治初期の企業人は金儲けの人ではなく、社会をつくる英雄的人物と捉えられていた。

 ところが、その後、大組織化による官僚機構が整備されるようになり、官僚養成のために高等教育機関も制度されれば、ビジネスの中から「公」の要素は消え去り、「私」中心の時代になる。熊野氏のような才覚も、自叙伝という表現に使われ、自らの出世として調子を合わせることに使われるしかない。

◆ユーモアの復権を目指して

 小説の中では、このような世代間ギャップの会話のズレが笑えるのである。その笑いは、嘲笑ではないし、憎しみも、怒りも含まれない。部下たちは、ガラマサどんを「精々日露戦争時代の頭ですから、そう恐れることもありませんよ」とバカにする一方で、「親分として子分のことを能く考えていてくれる」とも言う。要するに、会話で理解し合えないが、なぜか理解できない相手が好きになっているのである。

 佐々木邦のユーモアの素晴しさは、このディスコミュニケーションがそのまま感情的対立にならない点であろう。他者を認めない排他的敵対主義でもなく、相手に共感して完全に理解できるとする理想主義でもないと思う。今、我々に最も欠けており、ギスギスしている会社組織を変えるのは、佐々木邦流のユーモアではないか。本書は、それに気づかせてくる小説なのである。