【評者】高橋一基(フェニックス研究会前代表)
新卒採用のシーズンになり、学生を相手に面接する機会がとても多くなった。学生に企業選びの軸について質問すると、「自分が成長できる環境を選びたい」という答えがかなりの割合で返ってくる。しかし、会社の中にいると能力発揮にはさまざまな要素が絡み合うことが見えるため、「成長」とは何なのか、かえって分からなくなる。そもそも、なぜそこまでして成長を自らに求めなければならないのだろうか?今回紹介する『自己啓発の罠』のタイトルどおり、私たちは自分の意思ではなく、外的な要因で自己啓発を強いられているのだろうか?
本書の第一章は、「私たちは自己啓発に囚われている」(p7)という挑発的な書き出しから始まる。その後も「私たちは目標を非常に高いところに設定し、そこへ即座に到達しようと望む。完璧を望むことにはストレスが伴う。(中略)自己啓発はもはや、個人的、そして文化的な病と言える。」(p8)、「『自己啓発』はもはや、選択肢の一つではなく強制となった。自己啓発を続けなければ怠け者と見られる。」(p9)といったように、自己啓発を強いられることが、個人にとって苦痛をもたらすリスクを孕んでいると論じる。
第二章から第四章では、なぜこのような文化になったかを哲学史的な観点から探っていく。
その源泉は、古代ギリシアやローマのストア派哲学で説かれた「自己の完全化」という概念にあるという。そしてその概念が時代を超えて受け継がれたまま、自己啓発産業として取り入れられる過程が語られる。第五章ではテクノロジー(特にAI)がどのように自己啓発を手助けするとともに、特にSNSによって、常に他者と比較されると同時に、自己がデータ化されていく点を述べている。
上記のように整理した後で、状況をどう打破するかを著者は検討している。まず第六章で、自己啓発で前提としている「自己」は外界とは独立したものではなく、他者や環境との関係の中でのみ改善できる、という主張をする。その前提のもと、第七章ではテクノロジーとの関係性を総括する。具体的には「本気で自己啓発を望むのなら、自己にこだわるよりも、良い生や良い社会に焦点を当て、(中略)テクノロジーに依存していることを正当に認めて自分自身についてより関係的に理解」(p147)した方がよいと、自己のための自己啓発を批判している。
本書はアメリカの文化を前提として書かれているため、日本では他者の目線を内在化して自己をより良くする圧力を感じている、という方がより正しいと感じる。いずれにしても、自己への意識が先鋭化しすぎたためにリスクも伴うものになっている(そして何らかの形で自意識が煽られている)点では共通点がある。本来、自己啓発は内在的な動機から行うものだろうが、テクノロジーが発達した現代では「内在的な動機から、煽られていることなく自己啓発を行っている感覚」を持てるよう環境をコントロールする必要があるかもしれない。
著者の主張は素描であり、より具体的にどうすべきは読者の手に委ねられているが、自己啓発という身近な概念が抱える問題から、そのバックグラウンドにまで思いを至らせてくれる内容となっている。「即効性は薄いがじわじわ効く一冊」と言えるだろう。