【評者】高橋一基(フェニックス研究会前代表)
仕事でもプライベートでも、未来は事前に思い描いたとおりにはなかなか進まない。針路の変更を余儀なくされる出来事の中でも、病気は事前の予測が難しく、当人や周りに与える影響が大きいものの代表格といえる。私たちは大きな病気を患ったときに、未来への展望や今の生き方をどう変えるのだろうか。本書は、著者の一人である宮野がガンと診断され闘病する中で、もう一人の著者である磯野と始めた往復書簡を記録したものだ。書名のとおり「急に具合が悪くなる」ような大病を患った哲学者(宮野)と、往復書簡の相手になった人類学者(磯野)の間で、病気をめぐってさまざまなテーマが議論されているが、大きくまとめると「関係性」「可能性」「選ぶこと」に関する思索が交わされている。本稿では、中でも繰り返し話題になっている「選ぶこと」に焦点を当て、人事の中でたびたび議論の的になる「キャリア」を考える際の糧にしたい。
まず、病気にかかった患者が引き込まれるリスクをめぐって「選ぶこと」は現れる。例えば「この薬を飲んだら〇〇%の確率で△△のような副作用が出ます」のような言説だが、ここに宮野は違和感を覚え、「分岐ルートのいずれかを選ぶとは、一本の道を選ぶことではなく、新しく無数に開かれた可能性の全体に入ってゆくことなのです」(p30)と述べる。
次に、病気をめぐる情報を取捨選択することから「選ぶこと」が話題になる。病院やケアに関するさまざまな情報に触れた結果、宮野は「選ぶの大変、決めるの疲れる」と思わず口にする。そして、帰省先の京都で偶然見つけた病院で今後のケアの方向性が形作られていった経験から、「そもそも『選ぶ』って何だろう」という問いに至る。そして、「選ぶとは能動的に何かをするというよりも、…快適さや懐かしさといった身体感覚に近いのではないか、そして身体感覚である以上、自分でいかんともしがたい受動的な側面があるのではないか」と実感する。この実感は、宮野が医者に治療の方向性を相談する場面では「『私の選択は私ひとりのものなのか』『選択とはひとりで担うことができるものなのか』というふうに言い換えてもいいかもしれません」と変化する。
選ぶことについては、「急に具合が悪くなった」後、最後に交わされた書簡で再度現れる。宮野は、選ぶためには選択肢が必要で、かつ選択肢が不確定な状態であることを前提として、「選択とは偶然を許容する行為であるし、選択において決断されるのは、当該の事柄ではなく、不確定性/偶然性を含んだ事柄に対応する事故の生き方であるということ。〇〇な人だから△△を選ぶ、のではなく、△△を選ぶことで自分が〇〇な人であることが明らかになる。偶然を受け止めるなかでこそ自己と呼ぶに値する存在が可能になる」(p229)と述べる。つまり、人格が選択を決定するのではなく、むしろそれぞれの選択が人格を形作っていくということだ。
この主張は、私たちが普段意識している「選ぶこと」のイメージとはかなり異なる。ふつうは、個々の選択をする際には、自分の考え方の癖やリスクへの選好性が表れていると考えるはずだ。ただ、選択肢の結果が不透明になるほどに、選ぶことは身体感覚に近くなる。その時には、自分でも普段意識していなかった感覚が、選ぶことによって初めて意識されるようになる、という点では的を射ていると感じる。
そして「選ぶこと」への宮野の主張は、キャリアにも同じことが言える。ある時点で決めた夢や目標に向かって一途に突き進む選択をするよりも、その時の選択(とその支えになる感覚)によって自分なりの歴史が編まれていくことの方が、自分が後から振り返った時に腑に落ちるものになるのではないだろうか。