最終回「悠久の時を超えて?妥協なき伝承(小笠原流)」

 この連載も、今回で最終回を迎えます。武術を含め、日本では古くから伝わる伝統が多くあるなか、最終回は、800年を超えて「流鏑馬(やぶさめ)」に代表される弓馬術礼法の伝統を伝える小笠原流を取り上げます。
 宗家ご夫婦のお話を聞かせていただくだけでなく、実際のお稽古体験から体で感じたことを交えて、弓馬術礼法小笠原流とは、そして、先人が長く守り抜いてきた伝統、家、考えとは、にせまりたいと思います。

◆流鏑馬(やぶさめ)

疾走する馬から、三つ目の的を射る。浅草流鏑馬にて

 アナウンスと共に、一直線に馬が馬場を全力疾走して向ってくる。「一の的、的中!」「二の的?」、そして、「三の的」の前に座る私の眼の前を、風が通り過ぎたかのように、射手と馬が走り去る。
「早い」と、思わず声が出てしまった。馬が走り出してから駆け抜けるまで、わずか20秒の出来事だ。
毎年4月に行われる浅草流鏑馬、見ている人たちは、的を射る度に歓声と拍手を送る。この「流鏑馬行事」を執行するのは、弓馬術礼法小笠原流31世宗家小笠原清忠氏。


◆弓馬術礼法小笠原流

小笠原家の歴史 八芳園での講座から

 武士の装束を身にまとった射手が、疾走する馬に乗りながら三つの的をめがけて、矢(鏑矢)を射る。
家に伝わる伝統でもって「流鏑馬」を神事として神社に奉納している団体がある。小笠原家を中心とした「弓馬術礼法小笠原教場(きゅうばじゅつれいほうおがさわらきょうじょう)」の方々たちだ。
 小笠原流@Wiki によれば、「小笠原流は、鎌倉幕府創設期から室町、江戸時代を通じては将軍家師範として、また武家社会が崩壊した明治維新以降は、広く一般にも公開し、時代の要求を取り入れながらも日本の伝統文化を守るべく、初代小笠原長清より八百有余年にわたり一子相伝、礼法・弓術(歩射)・弓馬術(騎射)の道を連綿と継承している。」
 初代小笠原長清が鎌倉幕府将軍源頼朝に請われ、その糾法師範となった1187年に小笠原流の伝統が始まる。それから800年あまり、第31世宗家小笠原清忠氏が伝統を伝えている。

◆礼法は身体の鍛錬

 4月中旬、世田谷にある「弓馬術礼法小笠原教場」を訪れた。礼法・弓術(歩射)・弓馬術(騎射)の実際のお稽古を体験させていただくためである。世田谷の住宅街にある教場は、思いの外小さく写った。入ってすぐ、階段を登り、2階に通してもらい、まずは、礼法の手ほどきを31世宗家嫡男小笠原清基氏から受ける。
 小笠原流礼法では、礼法の基本を「立つ、座る、歩く、お辞儀をする、物を持つ、回る」の6通りとする。毎日、意識せずに行っているこれらの動きを、小笠原流で行う一つ一つの動きに従って行う。まずは、立ってお辞儀(立礼)。自分の呼吸に合わせて、浅いお辞儀から深いお辞儀へと行う。そして、座る。ゆっくりと腰を下ろしてくると、ふくらはぎ、膝、膝下から足先まで、普段では感じていない力を使うことに気がつく。何とか腰を下ろし、今度は、「跪座(きざ)」の姿勢を保つ。慣れない姿勢だけに、足の親指に激痛が走る。正座をして、今度は、座ってお辞儀(座礼)。再び、「跪座」になってから、今度はゆっくりと「立つ」。座る時より、足全体にさらに力が入る。そして、今度は「歩く」。という動きをしているうちに、次第に汗がにじみ出てきた。礼法のお稽古は、単に立居振舞を稽古するだけでなく、筋力を鍛えることにもなるからだ。私が思い描いていた優雅な「礼法」のお稽古とは違って、汗をかいて、ジムで体を動かすような運動のようだ。


◆無駄のない場所で道具を使って

 礼法のお稽古体験の後は、1階におりて弓術と木馬を使った弓馬術の体験をさせてもらう。お稽古場は、意外に大きくない。弓術は20畳ほどの部屋で、近い距離から的を矢で射る基本動作を教えてもらう。弓と矢の持ち方と手の扱いを教えてもらい、円を描くようにしながら、両手に同じ力を加えて射てみる。そして、弓馬術では、馬の騎乗から弓を射るために行うお稽古の基本、「騎射体操(きしゃたいそう)」を教わる。まずは、地上で実践してみる。膝を曲げて腰を落とし、膝を左右両側にほぼ180度広げ、上半身をそらした状態で、両手を大きく回す。バランスを取りながら手を回すには、背中、腰、ふくらはぎにとても負担がかかる。手をまわすごとに、1回カウントしてゆく。20回どころか、10回さえも続けられそうにもない。実際、この「騎射体操」を完璧にできた参加者はいなかった。先ほどの礼法のお稽古は、この「騎射体操」を始めとした弓馬術のお稽古に耐えられる身体を作ることにもなる。
 弓馬術のお稽古とは、生きた馬を使ってのお稽古をするかと想像しがちだが、実際は、木馬を使ってお稽古をするのが約95%くらいだという。あとの5%くらいが生きた馬でのお稽古となる。そして、「流鏑馬」を行う前日か当日に、乗る馬に初めて出会い、いきなり乗るのが当たり前だという。31世宗家嫡男小笠原清基氏は、「乗り慣れた馬に乗るのではなく、初めて会うどんな馬も乗りこなす経験をすることで技量を上げる」と話す。

木馬の鞍から腰を浮かせ、足のかかとだけを木馬につけ、バランスをとる

 お辞儀をして木馬にまたがり、舌長鎧(したながあぶみ)に足の親指をかけ、自分のかかとを木馬に付ける。そして、鞍からこぶし一つ分くらいお尻をうかせ、木馬と接点になるかかとを中心にバランスをとりながら手を回して「騎射体操」を行う。地上にいる時にすでに根をあげた私のような初心者は、木馬の上でバランスとるのが精一杯だ。どうしていいか、頭が真っ白になった。これが、「流鏑馬」のお稽古なのか?身をもってお稽古の厳しさを感じた。
 弓馬術礼法小笠原教場での体験を通して、流鏑馬に参加できるようになるまでの道のりは、果てしない道に思えてきた。一方で、800年以上に渡って伝統を伝えてきたお稽古は意外に地味なものであった。日常の生活の中でも行える礼法や、最低限の敷地で木馬を使ってというように、ごく当たり前の生活と慎ましい環境で行われている。その環境で、繰り返し行うことで基本を身に着け、いつ何時も同じことができるための訓練を積む。これが、疾走をする馬に乗り、たった20秒ほどの間に、馬上から三つの矢を射る「流鏑馬」のお稽古である。

◆伝統で生計を立てない

 さて、時代は遡って明治の初め、明治の文明開化の中、第28世宗家小笠原清務氏は、それまで武士階級のためだけだった礼法の教えを、一般市民に向けて門戸を開いた。従来の礼式をいかに近代生活に適応させ、新しい学校教育制度の中に取り入れるかに尽力されたという。その清務氏が立てた小笠原家の家訓が、「伝統で生計を立てない」だ。その後の宗家は、この伝統とは関係ない分野で仕事につき、夜間や休日などを使って、小笠原流の伝統を受け継ぐ活動を行ってきている。その理由は、「正しい伝統を伝えるため」という。つまり、伝統で生計を立ててしまうと門人との馴れ合いなどが出てしまい、利害のために伝えるべきことが形を変えてしまうことになると考えたからだ。この家訓は、28代以降の宗家、そして、宗家嫡男小笠原清基氏に至るまで厳格に守られている。門人の方々もそれぞれの仕事を持ち、余暇を使って活動に参加している。

◆一子相伝と口承

 この31代続く、小笠原家に伝わる家訓のもう一つに「一子相伝」がある。嫡男にのみ小笠原流の伝統を受け継ぐ。男子を生み、育て、伝統を引き継ぐというのが、宗家ご夫婦の一つの使命だと言われる。
なぜ男子か?

 馬上で体をささえ矢を射るのには、鍛錬を積んだ強靭な体格が必要で、特に、男性の骨格の形が必要となる。そして、「なぜ、嫡男か」という問いには、「理論では説明できないものがあります。例えば、同じことを教える中、血を継いだ子供は、他の門人に比べ一歩抜きん出る時があります。」と現宗家清忠氏は答えた。DNAのみが物語っている言葉のように感じた。

 過去800年あまりにわたり、小笠原流は、時代の大きな変化から受ける数々の危機を経験してきた。明治維新の武家社会の崩壊、戦後の社会の変化。過去の危機を乗り越えた裏側には、口承で伝えることの重要さが見え隠れする。清忠氏によれば、関東大震災、そして、戦後の時、家に伝わる大事な書だけを運んで逃げたという。「道具は、門人に預けたりはしたが、最悪、焼けたとしても仕方がない。家に伝わる伝書だけが残れば、身についた身体の動きと口伝とで伝統を復活できる」と、現宗家清忠氏は自信を持って言う。確かに、文書では、書き留める内容が限られてしまうが、口承にすることで、より多くの情報の伝達が可能となる。

◆時代の変化の中で守る伝統

 800年以上もの歴史を持つ小笠原流が続けるために行ってきたことは何だろうか?小笠原家に伝わる家訓だけでなく、少しでもその答えに近づけたらという思いに、頭を巡らせた。まず、時代の支配者が変わるのは世の常。それとともに変わる社会の価値観。この中で、伝統と家を守ってきたのだろうか?

 戦いが続いた戦国時代から、江戸時代の平和な世に移り、戦いのための弓馬術の必要性はなくなる。その中、徳川幕府2代将軍の徳川秀忠の糾法師範となり、諸大名や旗本諸氏に教えるようになる。小笠原流の伝統は、指導者としての武士階級の「嗜み」と受け入れられていく。

 そして、明治時代に入ると武家社会が崩壊し、武家の礼法は一般社会には受け入れるというより、旧体制の産物として疎まれてしまう。しかし、伝統は、第28世宗家小笠原清務氏の働きかけにより、今度は学校教育で教授される躾や嗜みとして、指導者、役人、教員となる平民へと広がることとなる。こうして、新しい社会での役割を得てゆく。

◆次世代を育てる心構え

 31代現宗家ご夫婦は、ご自分の嫡男を育てあげるだけでなく、全国を行脚して後進の指導、そして、学校施設等で礼法の指導を行っている。ある礼法のクラスの前に、お話を聞かせていただいた。

 「小笠原家がここまで続いた理由の一つは、祖父母から三世代同居することにあります」と宗家清忠氏。起きてから寝るまで、だれかが常に見る事で子どもを育てる。家でのその生活の徹底ぶりに驚く。例えば、現宗家の清忠氏は、「高校に入り弓道部に入るまで、正座以外の座り方を知らず、また、他の方が正座以外の座り方をするところを見たこともなかった」と話す。私は、言葉を失った。又、「子供がかわいければ、甘くはならないのでしょうか?」という問いに、宗家夫人は、「元服(成人)するまでは、決して、宗家の息子だといって特別扱いしないでほしいと、門人たちにお願いしました。元服して初めて、『若先生』と呼んでいただいた」という。嫡男の清基氏を育てる環境、宗家ご夫婦の心構えやその徹底ぶりが見られた。

 しかし、このように徹底した考え、姿勢、態度で伝えてこられた伝統は、ある節目を迎えている。戦後、いよいよ、学校社会で教えられていた礼法も学校科目からなくなり、生きることに必死だった国民が礼法を教えることもなくなって久しい。第31世宗家と宗家夫人からも、厳しい現実を物語る言葉が出てきた。「人間が楽を知ってしまうと、それを(厳しいことに)戻すことは難しい。楽をする人が増えれば増えるほど、周りからの影響も受けやすい。そんな中、伝統を伝えるのはますます難しくなる。」

小笠原流31世宗家ご夫婦


◆この世に客に来たと思え

 宗家ご夫婦が言われた課題と、次期宗家はどう向き合うのだろうか。そんな事を考えていて、現宗家清忠氏が引用された言葉を思い出した。

「この世に客に来たと思え」
 戦国時代から江戸時代にかけて活躍した仙台藩の伊達政宗が、自分の家臣に言った言葉で、上に立つ者としての嗜みを表した言葉である。「その昔、上に立つものは自分を律することができる人であるべきで、それができないのだったら上に立つな、と言われていた」と宗家清忠氏は話す。この世に客に来たと思うと、自身の行動や態度に意識が向き、自分の中に緊張感が走った。なるほど、一人一人が意識することで、社会が良くなるような気がしてきた。

 日本という国に生きた先人が、様々な試練を乗り越えて得てきた知恵と経験。1年に渡り4回に分けてご紹介してきました。その知恵と経験は、時間を超えた今でも十分参考になると感じました。お読みいただき、ありがとうございました。

(参考文献)
小笠原清忠『小笠原流の伝書を読む』
小笠原清忠『武道の礼法』
小笠原流@Wiki
弓馬術礼法小笠原教場

問い合わせ先
「小笠原流弓馬術礼法教場ホームページ」
宗家ご夫婦は学校教育、文化センター、全国にあるお稽古場で礼法を教えている。
 また、流鏑馬神事は、鶴岡八幡宮、日光東照宮、笠間稲荷などで観ることができる。