【評者】高橋一基(フェニックス研究会前代表)

『センスの哲学』千葉 雅也 (著)(文藝春秋)(amazon)

美術館では、分からない作品に出会うことがしばしばある。すぐに目を引かない作品は素通りしてしまうが、「自分の感性の問題で素晴らしい作品を見逃しているのではないか」という暗い気持ちで美術館を後にすることもある。これではいけないと思い、絵画の見方について解説した本をいくつか読んでみたが、モチーフの象徴的な意味や消失点など、テクニカルな面を解説する本がほとんどだった(それはそれで勉強になったが)。本稿で紹介する『センスの哲学』は、「個人が自分の持つ感性をどう磨けばよいか」の方向性を示してくれる点で、あまり類書がないと思われる。以下で要約と感想を述べる。

本書の第一章では、センスを良くするための第一歩として、再現志向から降りることを「ヘタウマ」の例示を用いて説く。そのうえで、第二章ではセンスを「ものごとをリズムとして捉えること」(p50)と定義する。注意すべきは、ここで言うリズムは一般的な用語よりも意味が広く、「形、色、響き、味、触った感じなどをすべて『リズム=形』だと見なしている。…それらはどれも『デコボコ』で出来ていて、だから抽象的に言って形だと見なせる」(p132-133)というものだ。

第三章ではリズムの二面性について述べている。「ない」から「ある」、0→1へのデジタルな切り替わりを「ビート」、0→1には還元できない落差を「うねり」として、リズムの新たな側面を提示した。第四章では、言葉の意味の距離(例:「熱い」と「赤」は近い)をデコボコとして捉えると、意味もリズムとしての側面があることを提示している。

センス=リズムに関する道具立てを第四章までで揃えた後、第五章では「並べる」をキーワードとして、映画を主な題材にしながら考察を進める。リズムを経験する中で、反復を予測すること、そして反復からのズレ=差異があることが面白さにつながるとした上で、著者はなぜそれが面白さにつながるかを「『ものごとには予測誤差が起きることもあり、そして、予測が外れてもなんとかなることがほとんどである』というような一種の楽観性」(p147)に求めている。そして、どのような並びでも人はそこにリズムを見出すため、「何をどう並べても作品は成立する、と考えてもらいたい」(p158)と結論付けている。

第六章では、「偶然性にどう向き合うかが人によって異なることがリズムの多様性となり、それが個性的なセンスとして表現される」(p174)と、偶然性とセンスの関係性について論じている。これは制作する側の立場に立つと、「自分に固有の、偶然性の余らせ方を肯定する」ことが、自分なりのセンスを活性化させるコツであるとする。

第七章ではベルクソンの思考を引用しながら、人間は作用・反作用のつながりが緩い生物であること、つまりインプットからアウトプットまでの間に時間的な遅れがあり、その遅延の間にどうするか決めることで、行動や芸術の多様性が生まれることを指摘する。

最終章である第八章では、芸術の意味について「アンチセンス」という概念を使って考察する。アンチセンスとは、特定の文体やモチーフにこだわって繰り返してしまうことで、反復と差異のバランスが失われることを指す。そして「センスはアンチセンスという陰影を帯びてこそ、真にセンスとなるのではないか」(p215)と示唆している。

本書の特に優れている点として、正解と不正解の枠組みから読者を解放するために細やかな気遣いがなされていることが挙げられる。論が進む中で、「リズムを上手く感じられない人がいたら、『やっぱり自分にはセンスがない』と感じてしまうのでは」という思いがよぎったが(そして自分がそうなのではと思ったが)、第五章の末尾で「だからまず、何をどう並べてもつながりうるし、すべてはつながり方の設定次第なんだと、気分を最大限に開放してもらいたい」(p166)と記されており、肩の荷が下りたような心持ちになった。

また、芸術はどう並べてもつながりうる=多様でありうるという観点から、芸術と倫理の関係について触れた部分も、自分の中で上手に整理できていなかった部分が言語化されており、唸らされた。べき/べきでないという規範意識で頭が凝り固まっている自らへの戒めとして、最後に引用したい。

「人間というのは、根本的に可能性の溢れを生きている動物であって、その溢れには、何らかの規範から外れること、端的に言って悪も当然含まれます。それゆえに、現実の社会運営では、人が共に生きていくために必要な制限や禁止が設定されている。ですが、そもそも人間が、悪まで含めて途方もない可能性の溢れを生きているということを表現において認めるのが芸術の力であり、それは、人間が人間たる条件を認めていることにほかならないのです」(p195-196)