コロナ禍というパンデミックにより世界中が不安と混乱に晒されています。いつまで続くのか先行き不透明なコロナの影響。当初の想定より長期化するのではないかという見方も多くなってきました。オリンピックは無事開催できるのか?ワクチンはいつ頃供給されるのか?医療崩壊は阻止できるのか?不安と混乱の種は尽きません。 ところで、読者の皆さんは自分らしいワークスタイルを取り入れられていますか?コロナ禍での働き方改革(新しいワークスタイル)は、国や自治体、企業といった組織が決めることではなく、働く私たちひとり一人が組織と個人との関係を見直し、自分らしいワークスタイルを模索することが大切なのかも知れません。
では、ワークスタイルって何でしょう?そもそも私たちは何を目的に働いているのでしょう?労働という言葉を哲学的に紐解くと、古代ギリシャ時代は、労働は卑しく、呪いに満ちたものと見なしていました。自由な市民は労働しないことを徳と考えていたようです。市民は大土地所有者のように、働かなくても生活できる人であり、古代の制度はそれを前提としていました。労働をするのは奴隷だけであり、農業、手工業などの担 い手はこうした奴隷たちでありました。市民対奴隷の身分社会です。現代からは想像もできない労働観です。その後産業革命の時代には、多くの人間は、工場やオフィスで労働者として働く機会が増加しました。労働者をどのように雇用し、どのようなルールで賃金を払えばよいか。工場内の産業用機械との関係をどうすればよいか、といった問題が経済学をベースに考えられるようになりました。同時に資本主義が発展し、どのような経済のあり方や体制が望ましいかということも議論されるようになりました。その代表が、アダム・スミスによる国富論です。この時代になると現在の私たちの働き方にも近い部分が散見されます。
今回の特集1は、コロナ禍で将来不安が高まり、社会の変化も加速しています。フェイクニュースやエゴイズムが蔓延し、他人に無関心で自己中心の社会に変化しつつある中で、一度歩みを止め、時間をかけてしっかり立ち止まって考えてみることも必要です。リベラルアーツや哲学といった分野を足掛かりに読者の皆さんが深く雇用・労働社会を考えるキッカケを得て頂ければ幸いです。

編集長:岡田 英之

江戸川大学基礎・教養教育センター教授・センター長 荒谷 大輔 氏

ゲスト:江戸川大学基礎・教養教育センター教授・センター長 荒谷 大輔 氏
東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。日本文藝家協会会員。専門研究の枠組みに捕われず哲学本来の批判的分析を現代社会に適用し、これまでなかった新しい視座を提示することを得意とする。

資本主義に出口はあるのか

リベラルアーツや哲学の視点から雇用・労働社会を振り返る

岡田英之(編集部会):本日は江戸川大学基礎・教養教育センター教授・センター長の荒谷 大輔さんにお越しいただきました。
本日は細かい実務的な話というよりも、そもそも論、根源的・普遍的な視点に立ち、そもそも働くってどういう風に考えたらいいのか、組織っていう言葉の意味をどう捉えたらいいのか、そうした観点からいろいろとお話をいただければと思います。

◆『哲学、リベラルアーツと問いを立てる力』

岡田:コロナ禍以前にも日本の企業社会における雇用や労働環境は、かなり制度疲労をおこしていました。これをこのまま放置すると早晩いきづまる、変わらなきゃということで、学者先生も、実務家も20年以上議論をしてきました。
そんななかリーマンショック、東日本大震災など外部環境によるショックがあり、特に今回のコロナの影響で、いよいよ私たち日本人はこれからどう働き、生きていくかといったことが差し迫った問題になっています。ここにおいて、根源的なあり方に立ち返って考えてみる必要があるんじゃないでしょうか。
先生には、人事や組織マネジメントとは違う分野から、傍目八目的観点でお話いただくと面白いと思います。最初に荒谷先生の自己紹介として、簡単にご専門分野とプライベートや研究分野で現在関心を持たれていることからお話いただけますでしょうか。

荒谷大輔(江戸川大学基礎・教養教育センター教授・センター長):哲学というのはなかなか一般の方にはなじみがないと思うのですが、それには理由があると思います。専門分化の問題は僕の本でも扱いましたが、哲学もかつては社会全体のことを考えて批判的に問い直す営みだったものが、今は哲学者の仕事は昔の哲学者の本をちゃんと読む仕事ということになっていて、専門とする時代や国、思想家などで研究者の間で分業するような状況になっているのでした。
しかし、本来哲学という営みは、社会全体がどんなロジックで成り立っているかを考え、それをクリティカルな視点から考え直すことだったと思います。そうして問い直すことで、見えてくる新しいビジョンを提示する役割を担うべきものだと思うのです。しかし、19世紀末ぐらいから資本主義の発達とともに哲学自体が分業制になってしまいました。
そうした中で僕がやっているのは、哲学の本来の立ち位置に立ち返り、「経済」と呼ばれるものについて哲学的に考え直す仕事です。大半の人は実社会で働き、学者になったとしても大学という企業の中で勤め、経済活動と切り離すことはできません。我々の生活環境自体は経済を抜きには考えられない。我々の生活がそこに取り込まれている「経済」の構造を批判的に検討することで、社会についての新しいビジョンを提示しています。
ちょうどコロナなどいろんなことが起きて、みんな自分の生き方を考え直す転機になっているとも思います。そうした流れの中で、僕がこれまで考えてきたことを接続できないかと思って研究を続けています。『資本主義に出口はあるか』という本を書かせていただいたのも、その試みのひとつです。

岡田:昨今、哲学という言葉がよく聞かれ、テレビでもいろいろな哲学者の番組をやっています。また、ここ4、5年、企業でのリベラルアーツ教育、大学でのリベラルアーツ学部など、この単語を聞く機会が多いと思います。先生のご専門から、このリベラルアーツというのは何なのでしょうか。

荒谷:「教養」あるいは「リベラルアーツ」という言葉は歴史的に整理しないとよく分からないところもあるのですが、アメリカにおけるリベラルアーツの源泉にはドイツの教養主義があり、日本もドイツの教養主義を輸入しました。ところがアメリカが輸入したのは古い時代のドイツ教養主義、日本が輸入したのはドイツの中で民族主義が高まり、ロマン主義化し変質したドイツ教養主義なのですね。「リベラルアーツ」と「教養」には少しニュアンスの違いがあるのですが、それは輸入元のバージョンの違いみたいなものに由来しています。ただ、日本が輸入したロマン主義的な教養主義は少し特殊で、ドイツでも日本でも戦争期のファシズム運動と明確に切り離せない思想的な要素が入ってます。リベラルアーツと言ったときに、ローマ時代やルネッサンス期を起源とするというイメージがあるかと思うのですが、それは現行のリベラルアーツとは内容的に少し違うと言わざるをえません。
僕自身は、大学での教養教育のとりまとめポジションの基礎教養教育センター長で、今の社会で有効なリベラルアーツを考えねばならない立場にいます。教養というのは、かんたんに言えば、ひとつの専門に偏らず、いろんなことを遍く知ることを意味します。広い視野を持つために必要なものが教養教育という位置づけです。

荒谷:しかし、実際問題として、いろんな学問を知ってもらおうと学生に○○概論を教えても、その分野を専門的に始めるにはどういう入口があるかという話になるのですね。たとえば社会学がどういう学問かを説明してある一般書はたくさんありますが、社会学が社会全体にとってどういう役割を果たし、何の役に立つかがいまひとつわからない。
そう考えると教養として必要なのはむしろ、クリティカルな視点を持つことだと僕は考えます。この社会、自分が働いている環境がなんでこうなっているのかということに対して、問いを自分で立てて探求できる力が求められるのだと思います。そうした問いを立てることができれば、自分で調べようと思うので、結果的にいろんな分野に渉る必要もでてくる。自分の問いを中心に知識が勝手に広がってくると思います。何々学というののさわりを一通り知ってるということではなく、自分で問いを立てる力を身につけることが教養なのだと思います。そうした力は、単に研究者を養成するというだけでなく、企業に入ってからも役立つ力になると思います。
いままでやってきたことが、前例踏襲だけでは済まなくなり、ではどうしようかという時に、ちゃんと問いを立ていろいろ考えると、そこにいろんな情報が集まってくる。クリティカルな視点を持って問いを立て、考えるというのが一番重要な能力なのではと思います。

岡田:まさに今、問いを立てる力っていうのが、企業の人材育成においてリベラルアーツ教育が必要な理由です。企業で経営上の課題を抱え、それに対して従来のやり方、過去の経験、業界慣行、法律上の決まりなど、既成概念だけでは解が見い出せなくなってきました。
そういった問題意識を感じている経済界の方は多いが、ではクリティカルに問いを立てるためにはどうしたらよいか。クリティカルシンキングなど技術的な研修はしてきたと思うんですが、もう少し根本的なところに立ち返って真理を探究する。そういうことを人材育成のエッセンスとして取り入れ始めた感じがします。

巷でよく耳にするリベラルアーツとは?

◆『資本主義、日本型雇用、そしてコミットメントの経済化』

岡田:リベラルアーツや哲学という言葉が流布してきた背景には閉塞感ということがあると思うんです。その閉塞感の原因は何かといったときに資本主義という多くの先進国が採用し、社会経済システムとして駆動している考え方がある。この資本主義についてクリティカルに整理しなければと思いますが、荒谷先生が考える資本主義の本質について少し説明いただけますか。

荒谷:歴史的に見ると源泉は明確で、アダムスミス以来、資本主義が発達してきたわけです。アダムスミスの経済学の考え方っていうのは思想なんですね。ものの世界についての考え方、社会はどうなるべきかを新しく構想するなかで、資本主義の仕組みを考案したというのがもとになっていて、どういう社会がいいのかというアイディアが根本にある訳です。
現状の我々のマインドセットを規定している資本主義、そこで考えられているのは何なのかを明らかにすると、それなりに整理ができるのかなと思います。僕の本の中でやったのは、アダムスミスが思想として何を考えてきたかから始まって、それがシステムとしてどう発達してきたかを簡単にあとづけています。
我々が思想というのは、何を正しいとするかです。他人とのやりとりで「これが正しい配分ですよね」といった正しさをどのように決めるか、神様に依らず、お互いのやりとりの中でぴったり割り切れた状態をどう決めるか、という思想です。

岡田:日本型雇用と資本主義経済との対比がひとつ大きな問題にはなると思いますが、資本主義=市場原理主義みたいなものと考えると、日本型雇用の問題はいわゆる構造改革の話になりますね。

荒谷:日本型雇用というのは面白いと思います。それはある種の贈与経済で、単純に利益を上げることだけが評価基準なのではなく、例えば人間関係とか、何をやってあげたとか、恩を感じるとか、会社のために頑張るとか、お金とは関係しない部分の関係性というのをより重視します。
京セラの稲森さんのように徳が高い社長にあこがれ、皆がついてくるという経営。これが理想的という理念が日本の経済や会社を支える思想として機能していたと思うんです。これは結構面白い現象だと思っていて、ある種の人間関係や、贈与経済ということですが、贈与でものごとを回していく関係が、資本主義社会の中で成立している面白い例としてある訳です。
それが現状では、少しずつネオリベラリズム的なものに切り崩されているのかなという印象を持っています。ネオリベラリズム問題というのは一言でいうのは難しいですが、いわゆる不平等、搾取がある程度前提のシステムになっていて、それを個人の自由ということで覆い隠す。自分で好きでやっているのだから、競争して結果が負けたんだから、しかたないということでその人を納得させるような社会の運用のしかたです。

荒谷:文化人類学みたいなものをベースにして20世紀の初めぐらいからオルタナティブな経済システムとして贈与経済をとりあげ、一世紀くらいかけて資本主義経済に代わる経済として可能性があるんじゃないかといった話がだいぶされています。
ただ、贈与経済もそれ固有の問題を抱えていて、やってあげたと恩を着せてことがらを運び、またある種の恩着せがましさ、暴力的展開を孕むような形で展開せざるを得ない。そういう固有の問題をなかなかクリアできず、未だにオルタナティブとして機能した試しがないということになっています。

荒谷:哲学的にいろいろ考えて、現在進行形でこういうのがいいんじゃないかと考えているのは、コミットメントの経済化ということ。社会システムを計量しそれに見合った分だけの見返りをやるということです。
コミットメントって贈与経済に若干寄っている感じですが、贈与経済の方は「あとあと」いいことがあるだろうという期待によっていて、その時は搾取されるけど後で拾ってあげるみたいな、奉仕と俸給、封建制みたいな関係で成り立っています。
コミットメントの方は、コミットメントを単なる心理的負債として持っていくのではなくて、その都度計量し、これだけ頑張ったとその都度わりきれる関係で、これをシステムとして組み入れることを小さい規模ですけど実験でやっています。私の研究会で、すごく頑張って発表してくれる人は参加費なし、半分くらいコミットしてコメントしてくれる人は参加費半額、傍観だけで、その成果を享受する人はフルで払って、のように3段階ぐらいの設定で運営してみているんです。
そうするとコミットする側も、その都度割り切れた感じで、毎回ごとのやりとりでコミットメントがちゃんと評価される仕組みになるかなと思っています。まだすごく観念的ですけれども、こういう経済関係というのがある種のやり方としてあるのかなと考えています。

岡田:面白いですね。僕は経営学が専門なんですけれども、カーネギーメロン大学のデニスルソーさんは心理的契約という概念で、個人と組織の間には契約書にはなっていない暗黙の契約みたいなものがあると言っています。先生のおっしゃった勉強会、その組織の構成メンバーの中である種のコンセンサスが成立し、それがコミットメントを引き出す。厳密に計量化できていないけれども、集団の中でコンセンサスを形成する。
今までの終身雇用は、アベグレンが言っていたようにライフタイムコミットメントで時間軸がすごく長く、現在の貢献への報酬が30年後に支払われたりする。タイムラグがおこって、なかなか帳尻が合わない。そんなことを感じました。
30年から40年という時間軸の中でコミットメントの帳尻を合わせるのは、ある種情緒的で良かったんですが、それが時価主義、その時々のアジャストによる相互信頼というのが形成される。

荒谷:経済学批判といっても、社会関係においてモノとお金とのやりとりが人の間で発生することは不可避だし、それを批判することはほとんど意味のないことだと思います。問題はどういう形の関係を結ぶかということに尽きると思っていて、コロナ禍でそうした問いが立てやすい状況になってきました。
現状のシステムを問い直すいいきっかけになってきたと思っていて、今言ったようなことを考えて組織を運営することが新しい関係性を生んでくるのではないかと思います。

リベラルアーツや哲学が流行する背景とは?

◆『その都度の関係性の上でのコミットメントと対価』

岡田:次に、先生のご専門分野で、働くという行為についてですが、労働力の提供とそれに対する対価としての賃金という単純な関係だけではなくなってきている。自己実現とか働くことで個人が成長するとか、働くという行為を通じて付加価値を求めるようになってきた。
そうなってくると、資本と労働の論理である意味わかりやすかった関係がそうではなくなってくる。労働力を利用する側も迷うし、労働力の提供側も迷う。いろんな欲求がある。そんな中で哲学とか倫理学という学問分野において働くことをめぐってどんな議論があるのでしょうか。

荒谷:哲学史をひも解いてってことで言うと、いろんな議論はあります。たとえばハンナアレントはレイバーとワークを区別して、レイバーは搾取される、ワークは違うみたいな感じですね。ただ、僕が考える労働とは、コミットメントに対し対価をもらうという関係性が重要です。働くことは、労働力を商品としてお金に換算するという関係でなく、我々の生活の大半で、その人が生きる日々を構成しているものであると考えられます。
やはり、そこで働くのが楽しいという要素が結構重要だと思うんです。いろいろな仕事があって、楽しいことばかりではないですがコミットできる。それをやることで自分が納得しているし、コミットメントによって自分は対価をもらっているという感覚が伴っていると寄与レベルが高い。働くということにやりがいを感じながら、その都度関係を結んでやっていくことが労働ということになればいいなと思います。
なかなか現場で実現は難しい面もあると思いますが、今は前例を踏襲し資本主義をそのまま引き受けなくても良いというチャンスでもある。どう再構築していくかを考えてのトライ・アンド・エラーになりますが、やってみることができる環境になるという点では、面白くなっていくのではと思います。

岡田:終身雇用というのは、組織と個人を結ぶコミットメントが生涯ただひとつだけですが、その都度、自分のコミットメントと組織が求める誘因というのがうまい関係になるようであれば、そこは柔軟にコミットメント契約を見直していくような性格の労働が可能になりますね。

荒谷:組織の側も終身雇用を見越した労働力の使い方というのではなくて、あるプロジェクトなりの関係性のなかでどれだけパフォーマンスを引き出すかという関わり方、人材に関するアプローチということがありえたら面白いなと思います。人材の方もその時に提供できるようなものを自分の中にもっておく、そういう関係がむすべると良いですね。

岡田:大学の先生は、結構組織を移りますね。コミットメントを計量化して、組織と個人の関係がウィンウィンになるような動きだが、外部環境の変化でウィンウィンではなくなる。そうしたときに組織と個人でコミットメント契約を柔軟に変更する、破棄する、再契約するというイメージを大学の先生にイメージするんですが、実際そういう指向の方は多いのですか。

荒谷:たぶん大学教員がそういう風に対応できるのは、実績というのが大学組織内における実績じゃなくて、外部に存在しているからだと思います。具体的には、本や論文を書いたり、教育においてどれだけ実績を上げたかが評価対象になる訳ですが、評価する尺度が組織内在的ではなく、外部共有している部分があるので、他の大学に移って、この先生がどういう働きをするかは、ある程度予測可能になります。

岡田:民間のサラリーマンの場合はその組織内の評価基準で、広く社会一般、汎用性のある評価基準というのは無いですね。民間企業の場合は閉じた組織の中で評価されるので、そこに忖度とか同調圧力とか、いろんなものが絡む。その点、先生がおっしゃったように変わってくると働き方も変わるかなと思いますね。

荒谷:実際組織が運用されている現状で、規範というか、その組織の中でどうあるべきかというものはあるかとは思うんですが、それが割と閉じていて他に通用しないという関係があったとすると、それはこれまでの環境で適用したある種のあり方だと思うんです。

◆『現状に問いを立てられる人を評価するしくみ』

荒谷:社会全体の環境の中で企業がある程度の長い期間利益を上げてきた実績があって、その実績はこういうふうなやり方でやってきたと。ところが、そのやり方自体がうまくいかなくなったとすると、組織内部の視点だけではなくて、さっきのクリティカルシンキング、全体を俯瞰して問いを立てられる人というのが評価される、そういう仕組みになってくるんじゃないかと思います。
企業の担当者の人が社会やその企業に利益を上げられる人物として、その人を使えるようになってきて、そういう視点で人が評価されるようになってくると、その意味で価値基準の平準化がされ、社会で共有できるようになってくるんじゃないかなと思います。

岡田:有難うございます。最後に読者、人材マネジメント協会の皆さんに、このコロナ禍そして日本の未来の働き方、会社とか組織のあり方に関してメッセージをいただけるとありがたいです。

荒谷:今まで言ったことのまとめになると思うんですけれども、現状、不確定性が増してきてこれまでやってきたことがなかなか通用しない中で、もうちょっと広い視野でこれからを考えていける人材っていうのが社会を新しく切り開いていく価値を生み出していく存在になると思います。今までの評価の基準というのを人事担当のかた自身がもう一回見直してみて、広い視野のもと人材を見直すと社会がよくなっていくのではないでしょうか。

岡田:本日はどうも有難うございました。

コロナ禍で大切なのは、自ら問いを立てられる人間