ひとことに伝統と言っても、何を我々は伝統と考え、大切にしているのでしょうか? 日常、伝統を守る人たちは、ほんの一握りと思いがちです。しかし、この歴史の長い日本に生まれて育った我々一人は、何らかの形で、伝統を引き継ぐ活動に関わっています。実は、そんな身近な存在の伝統を守る人たちとは、共通の話題があるのです。人事組織に所属し、業務に携わる方々にとって、この伝統を受け継ぐ方々の話から、日頃の業務に何かしら、ヒントをもっていただければ幸いです。

(寄稿:インサイト編集部員 中田 尚子)

◆宝蔵院流高田派槍術(ほうぞういんりゅうたかだはそうじゅつ)

宝蔵院流高田派槍術十文字槍

 現代社会では組織と言うと、会社などの組織を思い浮かべる方が多いことと思う。その会社組織が、長い日本の歴史の中で登場するのは、日本が近代化した明治時代以降であり、それ以前の江戸時代は、各地域に置かれていた300ほどの藩という組織が、各地域を治めていた。その前になると、貴族たちが荘園を治め(平安時代)、武士が守護という形で治めた(鎌倉、室町時代)。そんな中、奈良にある法相宗の大本山として知られる興福寺は、平安時代から室町時代にわたるまで、大和国(現在の奈良県に相当)を治めた。今回、この興福寺の一つの子院、宝蔵院というところから生まれた武術の一つ、宝蔵院流高田派槍術について、興味深い歴史と、その伝わってきた伝統技術と精神に焦点をあててみたいと思う。


◆法相宗大本山興福寺こうふくじ

 古都、奈良。710年から794年、京都の平城京に都が移るまでのほんの80年余り、この奈良に都が置かれた。一方で、この街が育んできた歴史を辿ると、実に興味深い。中世の頃、奈良の寺院の一つ「興福寺」は、3000人から5000人もの僧侶を抱える一つの大きな組織であったのは、ご存知だろうか。ご承知の通り、奈良には、法隆寺をはじめ、東大寺、薬師寺、唐招提寺など多くの寺院がある。興福寺は、その中でも、歴史が長く、規模の大きさと言い、歴史の中で果たした役割は大きい。

 その興福寺が歴史に登場するのは、710年、藤原不比等によって「興福寺」と名付けられた頃だろう。それ以来、藤原氏の人々の手によって、堂塔が建てられ、敷地内が整備されるだけでなく、平安、鎌倉、室町、戦国時代通じて、大和一国を治める行政体と
しても機能している。ただ、興福寺は、行政の役割も務めるだけでなく、新しい技術や人材を積極的に導入しながら文化的にも豊かな場所であったようだ。この興福寺からは、多くの文化が生まれている。お茶、お華、能、醸造技術、武道など。そして、その安全を司る部隊として僧侶は自ら武装し、寺や人民を守った。そんな歴史背景から生まれたのが、今回取り上げる宝蔵院流高田派槍術である。

◆宝蔵院流槍術の創まり

 流祖宝蔵院覚禅房法印胤栄(ほうぞういんかくぜんぼうほういんいんえい)は、学侶と呼ばれるくらい学識の高い僧侶であった。素槍中心だった槍術は、その胤栄が自ら発明した「鎌槍(十文字槍)」で画期的に変わった。そして、摩利支天の化身である成田大膳夫忠盛から二箇の奥義を授けられて宝蔵院流槍術を創めたと伝えられている。戦国時代の終わりの頃のことである。その宝蔵院流槍術の噂を聞いて、奈良の町に現れた人物の中には、あの宮本武蔵もいる。この興福寺の一つの寺院である宝蔵院を訪ねる場面は、吉川英治の小説「宮本武蔵」でも有名だ。流祖胤栄から時代を超えて、江戸時代の頃に、高田又兵衛が受け継いでいったのがこの高田派で、今では宝蔵院流槍術を受け継ぐ唯一の流派だ。高田又兵衛は、小倉藩の槍術師範家として九州に下るが、その弟子たちが江戸に出てこの流派を広めた。当時は、全国に門徒4000人とも言われた最大流派だったという。

◆宝蔵院流槍術の奈良への里帰り

現在の奈良国立博物館の土地に残る宝蔵院流の発祥の地を記す碑

 宝蔵院は登大路の南側にあったが、明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の折、土地が押収され取り壊されて、その跡地に帝室奈良博物館(現奈良国立博物館)が建てられている。

 そして、明治の時代が進むにつれ、この奈良の地から宝蔵院流槍術は姿を消すことになる。宝蔵院流高田派槍術現宗家第二十一世宗家一箭順三いちやじゅんぞう氏は、この流派のホームページでこう語る。
「奈良市中央武道場建設工事現場を視察に来県された石田和外全日本剣道連盟会長(元最高裁判所長官)が奈良市長(当時)鍵田忠三郎先生の案内で宝蔵院一門の墓参をされました。読経の後、石田先生は胤栄師の墓前で『実は宝蔵院流槍術を少々嗜んでいる』と申されたのでした。先生こそが宝蔵院流槍術の継承者だったのです。驚かれた鍵田先生は、道場開きにおいて是非ご披露いただきたいとお願いされたのでした。いよいよ昭和49年9月28日の奈良市中央武道場竣工式、続く29日の第20回全日本東西対抗剣道大会において見事な『宝蔵院流高田派槍合せの型』が演武されました。これが私と宝蔵院流槍術の初めての出会いでした。鍵田先生も感激し、この奈良発祥の槍術を是非奈良に伝えてほしいと熱望され、石田先生も快くお引き受けくださいました。槍術習得のために西川源内先生、鈴木眞男先生、松田勇吉先生、鍵田忠兵衛先生が数度にわたって石田先生のもとへ弟子入り派遣され、その後私も加えていただくようになりました。」

 そんな偶然な出会いがきっかけとなり、宝蔵院流高田派槍術は奈良に里帰りを果した。


◆宝蔵院流高田派槍術 槍合やりあわせの型

 宝蔵院流高田派槍術には、現在、槍合せの型として、表十四本、裏十四本、新仕掛七本が伝わっている。現宗家一箭氏の言葉をお借りすると、「『型』にはそれぞれの流派の様々な技術によって構成されています。伝習者は、この『型』を稽古することによって、460年前の技術を今に稽古することが出来るのです。

 『型』をしっかり稽古してその技術を自分の体に染み込ませ、それを後輩に伝えていく、これを絶え間なく続けてきてくれたお陰で、460年前の技術が今稽古できるということになるのです。他の古武道流派もこのようにして技術の伝承がなされており、日本独自の誇るべき文化の伝承方法であると思います。」

 日本古武道の伝承は、このような型稽古による伝承と禅の境地に現れるようにその精神性が重視されてきた。決して、スポーツ化した試合をしていない。

 現宗家一箭順三氏はこう言う。「ヨーロッパなどにも、フェンシングなどの武術はありました。しかし、勝負に拘る・勝ち負けの意識が入ると技術は後世に伝わらないのです。」

 日本の古武術は、型稽古に徹して勝ち負けのある試合は一切しない。演武会などで人前で技術を披露する機会を持つ。

◆宝蔵院流高田派槍術 槍とその技術

 宝蔵院流高田派槍術が使う槍には、二種類がある。長さ3.6メートルの素槍(素槍(すやり)通常よく見られ、その名のとおり槍穂が真っ直ぐな槍)、そして、2.7メートルの鎌槍(穂に鎌(横刃)の出ている槍)で、宝蔵院流は、鎌槍の一種である十文字槍(じゅうもんじやり)を使う。

 昔は、甲冑をつけた時の体勢を想定して重心を低く構えたところに特徴があり、これを扱うには強靭な下半身で「構え」る。そして、「歩行」。継足(つぎあし)と歩足(あゆみあし)がある。これらの身体の動きの中で、
 「引落(ひきおとし)」
 「巻落(まきおとし)」
 「摺込(すりこみ)」
 「柄返(えがえし)」
という技で槍を扱う。

 宝蔵院流槍術は、致命傷を負わせてとどめを刺す技が少なく、敵の攻撃を受け止め、止むを得ない場合にのみ少しの手傷を負わせ、相手の攻撃意欲を減ぜさせる技が多いのが特徴と言う。

◆宝蔵院流槍術 奥義おうぎ第一「大悦眼(だいえつげん)」

 宝蔵院流槍術の「奥義」に「大悦眼」という言葉が伝えられている。宝蔵院流高田派槍術現宗家である第二十一世一箭順三氏は、この言葉について、次のように説明をしてくれた。
「二人が相対すると、恐怖心から相手を睨みつけてしまって顔も堅くなってしまうものです。特に真剣を持って対すれば尚更です。こうしたときに「大悦眼」ほほえむような眼を持って相手と対しなさいという教えだと思います。こうすることで眼の力が抜け、顔の力が抜け、肩の力が抜け、体も自然体となって相手と対することが出来るのです。こうした稽古を通じて今の社会生活でも、人さんと対するときに「大悦眼」という言葉は活かすことが出来ると思いますし、私たちは稽古をしながらこうした勉強もさせて頂けるのは、ありがたいなと思っております。」

◆宝蔵院流高田派槍術現宗家を訪ねて

宝蔵院流高田派槍術第二十一世宗家一箭順三氏

 秋の日の奈良市に、第二十一世一箭順三氏を訪ねていった。

 一箭氏は、奈良県に生まれ、1971 年に鍵田忠三郎氏が私邸に作った習心館道場で剣道を習うために、入門。その翌年、鍵田氏が力を入れていた坐禅にも入門する。1976年には、石田和外先生の宝蔵院流高

 田派槍術の演武に感銘を受けて、宝蔵院流に入門。石田先生の下に派遣され、第十九世宗家、二十世宗家とともに、宝蔵院流高田派槍術を継承してゆく。2012年、第二十一世宗家に就任し、現在に至る。これまでに、100名の門下を指導しながら、日本各地で行われる演武会などを挙行するだけでなく、フランス、オーストラリアで行われた演武大会でもその技を披露している。

 私が一箭氏を訪ねて行ったのは、奈良市中央武道場。その一室でお話を聞いた。

―― (中田)宝蔵院流高田派槍術との出会いは?

 私は、若い頃、片手で竹刀も持てず、お酒もろくに飲めない位、ひ弱な体質でした。このままではいけないと思い、なぜか、剣道を習い始めました。それが、鍵田忠三郎さんの道場「習心館」だったのです。入門してまもなく、先生が指導さていれる坐禅会に誘われました。毎朝、9kmの道を下駄をはいて道場に通い6時から7時まで坐禅をし、当時勤めていた奈良県庁で仕事をし、仕事の後に夕方、剣道の稽古をする。日曜日も含めて、毎日稽古に通いました。朝の坐禅が終わると、先生の前に座り、何かを話しないといけない。何を話そうか?禅の本を読んだりして、話をすると、先生にこう言われました。
「それは、頭で考えたことだろう。それを読んで、君は体で何を考えたのか?体で考えたことを話なさい」

 今、思えば、禅問答のようでした。しかし、こうして、体で考えること、そして、人前で話しをすることにも慣れていきました。

――私(中田)は、子供の頃から、「勉強しなさい」と言われて育ちました。体で学ぶより、頭で学んできた訓練をしてきたように思います。

 最近、子供たちが、マニュアルで教えられているように思います。賢いからすぐ覚えるけれど、そこから先を考える力が弱い。槍のお稽古の中でも、こうしたらいいのと教えてあげて、覚えるのだけど、何が先生と違うのか?そして、先生の技に近づくにはどうしたらいいのか?と自分で考えない。教えてくれるのを待っている。武道で見られることは、仕事でも同じことがいえるのではないでしょうか?

――石田和外先生のように、政治家や指導者に剣道をたしなむ方が多かったのでしょうか?

 古い時代には、政治家が剣道を習うのが当たり前だったと聞きます。例えば、山縣有朋など。「剣道は日本の指導者が習うもの」という言葉を聞いたことがありました。

――人に何かを伝えることに対して、大切にしていることは?

 自分が率先して行う、それを見て人が真似てくれる。しかし、宝蔵院流高田派槍術は、言わばボランティア団体であって、門下は、仕事をしながら稽古に来ている。宗家から言えば、みんなが行動を一つにするような一枚岩ではない。皆が、それぞれの興味や分野、意欲が異なっている。また、家庭を大事にしてもらうことも大切です。今は、週末に稽古ばかりに気をとられていると子育てをそっちのけになってしまいがちとなる。先ず家庭を修めないと、稽古を続けることが難しくなる。また、企業組織に勤めていると、転勤があって、お稽古を続けるのも難しい。

―― 武術で生計を立てないとは?

 「武術」武術で生計を立てることに抵抗があります。他で稼いで、稽古を続けていくことが理想。そうではないと、精神がいじましくなりそうです。

 現宗家の一箭氏は、優しい微笑みで持って終始対応してくれた。第二十世が急逝し、引き継いだ宗家の役割を全うすべく、日々お忙しくされている。

 武術の社会に果たす役割は、時代とともに変わっていくが、日本の武術は、他のスポーツとは始まりもその精神論も相異なるように思う。現在、人事の皆さんが直面する問題課題は山積みであろう。一つ、日本の歴史の中で重ねてきた思考に目を向けられても無駄にはならないのではないだろうか。

第26回 宝蔵院流槍術興福寺奉納演武会


(参考文献)
宝蔵院流槍術ホームページ
Facebook 宝蔵院流槍術
法相宗大本山興福寺ホームページ
吉川英治『宮本武蔵』


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