本稿では、小説の中に描かれた職場や仕事を紹介し、人事とは何かを探ってみたい。もちろん、小説はフィクションである。しかし、優れた文化的コンテンツの中には、現実の社会を鋭く切り取り、働く人々たちの潜在意識を顕在化させてくれる作品がある。人事担当者として専門知識やスキルを身に付けるだけならば、小説など読まずに、ビジネス書を読めばよいのだろう。ただし、最近のビジネス書の中にも、一見ビジネスとは遠いアートや文化が紹介されることもある。働く人たちの感覚や感情に近づくための教養力が求められているとは言えまいか。小説を読みながら人事について考える時間もきっと必要だと思うのである。

法政大学キャリアデザイン学部教授 梅崎 修 氏

執筆者:法政大学キャリアデザイン学部教授 梅崎 修 氏

大阪大学経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)
専門領域は労働経済学、教育経済学、人事組織経済学
近刊は『大学生の内定獲得: 就活支援・家族・きょうだい・地元をめぐって』(法政大学出版局)

カズオ・イシグロ(土屋正雄訳)『日の名残り』(早川書房)

◆さて、最後に何を選ぼうかな…

ちょうど9回目になる本連載も今回が最終回である。私は、我が家の書架の仕事小説コーナーを眺めた。実は、仕事小説のエッセイは本媒体で3つ目、多くの小説を読み続けてきた。「仕事や人事に関わる小説ではないか」と思った本は、コツコツと買い集めておき、締め切り2週間前あたりから今度は何を読もうかなと思案するのが、私の恒例の行事であった。

最終回の気分がそうさせたのか、カズオ・イシグロの『日の名残り』に手が伸びた。ノーベル賞作家によるブッカー賞受賞作、いつかは挑戦したいと目を付けていたのである。

◆追憶の中に仕事があることは幸福だと思う

『日の名残り』の主人公はイギリスの老執事、スティーブンスである。執事とは、単なる使用人ではない。大きな邸宅において多くの使用人の筆頭として家政のすべてを取り仕切る管理職である。優れた洞察力と管理能力、質の高いサービスを提供できるスキル、そして品格が求められる。

最後の品格は、この小説のキーワードである。ただし、その中身を理解するのは難しい。品格について述べる前にもう一つのキーワードである追憶を紹介しよう。

この小説は、仕事に人生をささげてきた老執事が、主人からお暇をいただき、イギリス国内を小旅行する6日間を描いており、小説は独白によって進行する。おそらく外側から見れば、老紳士の孤独な自動車旅行であるが、その心の内側を見れば、膨大な生きた記憶が溢れている。その中には、もちろん長年仕えたダーリントン卿への敬慕、数々の重要外交会議をやり遂げた充実感、同じ執事であった亡父への尊敬、女中頭であったミス・ケイトンへの淡い想いなどがある。

このような追憶は、失われたものに対する寂しさを伴う。そして、その寂しさは小説の中で一貫して奏でられている。

その一方で、仕事が甘い追憶の対象となることは幸福なことであると思う。仕事には苦い思い出、思い出したくない出来事もあるのだが、仕事が「自分の物語」として想起されなければ、われわれの記憶の中から仕事自体が完全に消えてしまうのではないか。そこには、虚しさだけがあるのではないかと思う。

◆<個人>の時代における<職業的あり方>

明確な階層社会であっても、貴族には高貴な社会的な使命があると考えられてきたのが、伝統的な英国社会であるとするならば、その伝統は失われつつある時代を主人公は生きている。しかし、それでもスティーブンスの追憶が輝いているのは、執事の品格を目指し、それを一部でも体現しているという誇りが存在するからなのである。この品格は説明しにくいが、次のような主人公の語りの中から読み取ることができる。

「品格の有無を決定するものは、みずからの職業的あり方を貫き、それに堪える能力だと言えるのではありますまいか。並の執事は、ほんの少し挑発されただけで職業的あり方を投げ捨て、個人的なあり方に逃げ込みます。そのような人にとって、執事であることはパントマイムを演じているのと変わりません。(中略)偉大な執事が偉大であるゆえんは、みずからの職業的あり方に常住し、最後の最後までそこに踏みとどまれることでしょう。」

この職業的あり方は、個人の自由を押しつぶす、古臭い伝統主義に見えるかもしれない。執事という役割に従うことが、なぜ品格となるのだろうか。

シェイクスピア戯曲作品の翻訳や演劇上演を行った思想家の福田恆存の『人間・この劇的なるもの』の一文をここに合わせれば、職業的あり方を貫く(貫きたい)という意味が浮かび上がってくる。

福田は、「私たちの社会生活が複雑になればなるほど、私たちは自分で自分の役を選び取ることができない。また、それを最後まで演じきって、去っていくこともできない。」という。「私たちの行為は、すべて断片で終る」のである。氏は主張する。「だれでもが、何かの役割を演じたがっている」と。

スティーブンスにとって品格ある執事とは、断片の連続だけの人生に生まれた普遍の役割(本当の連続性)であったのだ。

◆それでも、悲劇であると言わなければならない

実はスティーブンスの小旅行には、隠された目的があった。女中頭であり、結婚によってお屋敷を辞めたミス・ケイトンに会い、もう一度一緒に働かないかと伝えることであった。彼女から来た手紙によると、彼女の結婚生活は不幸であるように彼には思えたのである。

ケイトンに対するスティーブンスの行動はとても歯がゆい。彼の追憶の中でも才気活発でケイトンは、明らかに彼を恋い慕っており、彼もまた彼女を慕っている。優秀な執事であるはずの彼は、なぜケイトンの気持ちを理解できずに、柔軟性を発揮できないであろうか。これは、彼が仕えたダーリントン卿に関しても当てはまり、彼の優れた洞察力は主人に対しては向けられないのである。

旅の終わり、スティーブンスの人生の後悔は明らかになる。作者の筆致は、この失敗の悲劇を抑制的かつ客観的に描く。そして、この人生の失敗原因は、彼の愚かさではないのだ。

彼にとって、職業は人生にとって唯一の連続であるからこそ、変幻自在には変えられないものなのだ。連続的であるものを捨てることは、彼自身を捨てることなのだ。だから、職業的あり方を貫くことが悲劇を生んでしまう。

この静かな悲劇は宿命性を帯びて、我々に響いてくる。