国税庁の令和2年民間給与実態統計によると、昨年1年間を通じて勤務した正規従業員・男性の年間平均給与は550万円でした。対前年比では2.0%減となっています。女性は1.3%減の384万円で、男性とは1.4倍の格差があります。非正規は男女とも前年比プラスに転じ、男性が0.9%増の228万円、女性が0.7%増の153万円となっています。役員も含む給与所得者全体の平均給与をみると、賞与が大幅に減少し、男性は8.6%、女性は8.9%ダウンしている状況です。

 この30年間で各国の所得は大幅に上昇したのに対し、日本はほぼ横ばいで推移しているという議論はメディアを通じて多くの方々が耳にすることでしょう。

 1990年代後半から上がっていないと言われる年収。日本総合研究所の石川智久さんによれば、「総額は1990年代後半からほぼ上昇していない」とのこと。マクロ経済が専門の慶應義塾大学経済学部の小林慶一郎教授によると、1990年代のバブル崩壊期にその原因があるとのこと。具体的には、「変化の時期を逃したのは1991~94年です。不良債権処理を確実に実行しておけば良かったが、2005年までかかってしまったのです。日本と同じバブルが崩壊したスウェーデンなどではその後成長しています。結局、成長率が低いので企業は見通しが不確実だと判断し賃金を上げていない。大きく見れば物価もあまり変わらず、給与も同じような水準が続いている状況です」。一方、日本総合研究所マクロ経済研究センターの石川智久所長は、増加する業務量と日本独特の賃金カーブを理由に挙げています。「この数年、人手不足の影響で業務量が増え、以前より多忙に働いているのに給与がついてきていないと感じるのではないでしょうか。基本給が上がっておらず、昇給幅も小さいことから、昇給を実感しづらいとおもいます。バブル期までは、終身雇用を背景に、若いときは給料が低いが、中高年期に給料がアップするというのがありました。しかし、バブル崩壊後の低成長期に入ると、こうした賃金制度を維持することが難しくなりました。大企業の統計では、20年前と比べても中高年層の人のベースの給与が上がらなくなっています」。などのように“ニッポン人の賃金が上がらない”問題を巡っては議論が喧しい現状です。賃金の議論だけではなく、コロナ禍を経てこれからの労働市場はどう変化していくのか。今回の特集2では、東京都立大学 経済経営学部教授の宮本弘暁先生にお話を伺います。

(編集長:岡田英之)

東京都立大学 経済経営学部教授 宮本 弘暁 氏

ゲスト:東京都立大学 経済経営学部教授 宮本 弘暁 氏

東京都立大学 経済経営学部教授。米国ウィスコンシン大学マディソン校にて経済学博士取得(Ph.D. in Economics)。国際大学 学長特別補佐・教授、東京大学公共政策大学院 特任准教授、国際通貨基金 エコノミストを経て現職。専門は労働経済学、マクロ経済学、日本経済論。著書に『101のデータで読む 日本の未来』(PHP研究所)、『労働経済学』(新世社)がある。日本経済、特に労働市場に関する意見はWall Street Journal, Bloomberg,日本経済新聞等の国内外のメディアでも紹介されている国際派エコノミスト。

101のデータで読む 日本の未来

コロナ禍前後の労働市場を俯瞰・展望する~“ニッポン人の賃金はなぜ上がらないのか”の真因を求めて~

岡田英之(編集部会):本日は、東京都立大学の宮本弘暁教授にお越しいただきました。宮本先生には労働経済学の観点から、コロナ前後の労働市場の変化についてお伺いします。それでは、自己紹介をお願いします。

◆コロナ前と現在の労働市場はどう変わったか?

宮本 弘暁(東京都立大学経済経営学部 教授):東京都立大学経済経営学部の宮本でございます。私は経済学者で、専門は労働経済学、マクロ経済学、日本経済論です。東京都立大学に着任したのは2020年の4月で、それ以前はアメリカのワシントンDCにある国際通貨基金(IMF)でエコノミストとして、数年間勤務しておりました。IMFでは、加盟国の経済分析や経済政策に関する研究、それぞれの国に対しての政策アドバイスなど実践的に経済学を応用する政策現場の仕事をしておりました。IMFの前は、国際大学、東京大学公共政策大学院で教育、研究活動をしておりました。ですので、純粋にアカデミックばかりではなく、実践に近いことに途中で携わってきたのが私のキャリアのユニークな点かと思います。

岡田:ありがとうございます。アカデミックかつIMFでプラクティカルなご経験もされている。実は、私も東京都立大学ビジネススクールに4、5年前に通っておりました。

宮本:そうでしたか。

岡田:はい。桑田先生、長瀬先生、高尾先生などに大変お世話になりました。では、早速ですが、マクロ的な観点と若干ミクロも交えて、コロナ前と現在の日本の労働市場の動きについて解説いただけないでしょうか?

宮本:わかりました。コロナの前後で労働市場は大きく変わりました。コロナの前は労働市場のパフォーマンスは良く、失業率は中期的に低下傾向で、有効求人倍率も1を上回る状況が続いてました。人手不足という状態が過去数年間続いていたということです。中国の武漢で、コロナウイルスが報告された2019年12月の失業率は2.2%、有効求人倍率が1.68です。先進国で失業率2.2%というのは極めて低い数字で、日本でも2%代なんて戦後の高度成長期くらいまで遡らないと出てこない数字なんです。

岡田:そんなに良い数字だったのですね。

宮本:それが、コロナで一気に悪化してしまった。2020年8月までに失業率は3%を超えます。有効求人倍率は1.68から1.03とほぼ1まで下がりましたね。では今、足元どうなっているかというと2021年8月の失業率が2.8%、有効求人倍率が1.12で、昨年に比べるとそれぞれ若干ですが改善しています。
雇用者数もこの1年間、前年同月比でマイナスだったのが2021年4月からプラスに転じています。実は正規雇用はコロナ禍でも増えていて、マイナスだったのは非正規雇用だけだったんですね。その非正規雇用もこの3月から前年同月比でプラスに転じたので、一番悪い状況からは少し良くなったということですね。労働市場をみる際には賃金上昇率も重要ですが、こちらは大幅なマイナスが続いています。
諸外国と比べると興味深く、アメリカ、カナダなどコロナで一気に失業率が上がった国の平均賃金は上がっているんです。なぜなら通常景気が悪くなると、最初に首を切られるのは低賃金の労働者なので、その人たちが労働市場から抜け出してしまうと、労働市場に生き残っている人たち賃金だけになりますから、賃金上昇率がプラスになるという現象が起きます。でも、日本ではそれが観察されていない。日本では労働調整がどちらかというと賃金で行われて雇用維持がされたのが、他の国と比べたときの特徴だと思います。

◆人手不足なのに給与が上昇しない理由

岡田:賃金の話。先に質問させていただくと、巷でも失われた20年、ずっとサラリーマンの給料って横滑りだよねという議論があります。アカデミックな観点でこの議論のまずい点、良い点、真偽の程はいかがでしょうか?

宮本:すごく素晴らしい質問です。素晴らしい質問というのは、なかなか答えが簡単に見つからないという意味なのですが(笑)。実はコロナのちょっと前に、なぜ日本は人手不足なのに賃金が上がらないのかを研究していたのですが、最大の理由は労働市場の構造的な問題かと思います。

岡田:構造的な問題とは?

宮本:いくつかあるのですが、わかりやすい例でいうと、日本には正規雇用と非正規雇用の2タイプの雇用形態が存在します。正規と非正規の賃金の格差は大きくて、統計にもよりますが、非正規の賃金は正規の4~6割なんですね。1985年には雇用者全体の15%もいなかった非正規がわずか35年で約4割まで増えた。この方たちの割合が増えたので、どうしても平均賃金は下がらざるを得ない。これが一つ目です。

岡田:もはや非正規雇用がマジョリティになって4割近い。当然賃金が低い方々のボリュームが増えたので賃金上昇しない。むしろ下がっているんじゃないかと。

宮本:マクロで見るとそういうことですね。次に、賃金は労働生産性とリンクするのですが、労働生産性が日本の場合全然伸びていません。製造業はまだ良いのですが、サービスセクターの労働生産性は低くなっており、企業も給料を上げたくても上げられないという状況です。これが賃金を上から押さえつけている最大の要因というのが私の判断です。あれだけ人手不足で賃金が上がらないというのは、構造的な要因がなければ起こらないと思います。

岡田:宮本先生のご見解では、今後この2つの構造的な問題、どのようにソリューションしていくのでしょうか。

宮本:労働生産性についてお話しすると、ある意味過剰サービス、過剰生産みたいなことが起こっています。労働生産性というのは企業のアウトプットつまり付加価値を、それを生産するために必要となるインプット、労働サービスで割ったものです。労働生産性が低いということは、アウトプットが低いか、インプットが多い、あるいはその両方ということになります。労働生産性が低いというのは、労働時間に見合った付加価値が生み出されていない、端的に言うと、働き方が非効率になっているということです。大きな理由は賃金設計です。日本では労働の評価を労働時間で行うことがスタンダードとなっています。これは製造業などでは、労働時間と生産量がリンクしているので、非常に有効なのですが、サービス業だと、労働の成果を労働時間で測ることが難しいので必ずしも適していません。私は大学で教育サービスを提供していますが、長時間教壇に立っていたら、学生の成績が良くなるかといったら決してそうではない。もっと端的な例では、プロ野球選手の方がグランドに長時間いたからパフォーマンスが良いとは限りません。サービス業の労働の成果は労働時間で測りにくいというのが、経済学でよく指摘されることなのです。
日本は今やサービス業が経済の8割を占めます。労働時間で生産性を測り賃金をリンクさせると、どうしても労働者が過剰に働いてしまうことが起こりやすい。そこを変えてあげないと、なかなか生産性が上がってこない。日本の労働者の方は、海外に比べて人材レベルがものすごく高いのに、システムとして有効活用されていないのが最大の問題で、そういった意味で、労働市場改革を進める必要があると思いますね。

岡田:なかなか労働時間と付加価値が相関しない。我々も薄々気づいてはいるんですがやはり労働法などの影響もあり、時間ではない評価の仕方を模索しつつ20年経ってしまったというところなんでしょうね。

人手不足なのになぜ給与は上がらないのか

◆ミスマッチ失業、雇用保蔵、リ・スキリング

岡田:サービス産業の方々に我々消費者が支払う対価が安すぎるという話。日本人の場合、物に対する価格は比較的見えるのですが、サービス業、コンサルティングサービスとか、教育サービスなら授業1コマにいくら払うとなるとプライシング(価格設定)が難しい。だから、不当に安い対価を強いられたりしますね。

宮本:おっしゃるとおりです。他の先進国と比べてサービスに対する価格づけがかなり低いのは間違いありません。価格が低いので賃金も安くなり、人々の所得が増えないので、ますます安いものを、という悪循環になっているんですよね。どこかで循環のプロセスを変えてあげないといけない。先に価格を上げるとなかなかモノが売れなくなるので、やはり賃金を上げて、所得が上がることで少し高い価格づけをしても人々が買うようになる、そういう流れを作るのがマクロ的には正しい選択だと思います。

岡田:政府が、これ菅政権からですね。経団連に従業員の賃上げを、特に罰則とか強制力はないのですが、いわゆる分配論的な観点から要請しています。あの方向性は政策的には正しいのですか?

宮本:賃金が上がってくれないと経済がうまく回らない、というのは正しいと思うんですね。ただ、それを強制力をもってやることが正しいかと言われるとそこには??が出てきます。賃上げ圧力をかけてあげることによって、経済が好循環になるという考えに対しては、もっと慎重な議論が必要です。

岡田:そうなんですね。

宮本:最近の研究では、イギリスとかアメリカの場合、最低賃金を上げても雇用にマイナスの影響はほぼ見られず生産性も上がっています。ただ労働市場の仕組みは国によって違いますし、日本では最低賃金を上げると若年男性の雇用が失われるという研究結果もあります。最低賃金を上げることの効果については検証の余地があります。やはり、構造的に賃金が下がってしまっているので、そこを解決してあげないといけない。どうしても労働市場改革が必要で、時間はかかるかもしれませんが、賃金が上がる環境を作ってあげることが大事だと思います。

岡田:ありがとうございます。次は少しミクロ的な視点で労働市場のミスマッチ失業の話についてお伺いします。

宮本:今ミスマッチ失業と言っていただきましたので説明しますと、失業には2種類あります。一つがミスマッチ失業。もう一つが需要不足失業。この一年くらいの日本は、ほとんど需要不足失業で説明がつきます。

岡田:ここでお聞きしたいんですが、需要不足ではなくて構造的なミスマッチ失業ですね。中央大学の阿部先生が「雇用保蔵」と表現していますが、要するに社内失業者、終身雇用で保護されてきた大企業の社員で、実際は社内で仕事を失っているんだけれども身分、雇用だけは保護されている人が何百万人もいると。保蔵されている…冷凍マグロですね。能力・スキルが高い方々もいます。これ社会的に見ていかがでしょうか?

宮本:人材が活用されていないということだと思うんですね。私も似たような考えを持っている部分があります。日本的雇用慣行が、もううまく機能できていないんですね。かつては海外からも賞賛を受ける素晴らしいシステムでしたが、今は機能不全に陥ってしまっている。日本的雇用慣行が成立するためには高い経済成長と若い人口構造という2つの条件が必要なんです。高度成長期は人口構造が若く、経済が右肩上がりに伸びていたので、企業は常に新しい人をどんどん雇えた。解雇がなくて、人を雇う一方なので、一度雇われたら長期間ずっといけますよと終身雇用みたいなものが定着した。経済が成長していて毎年ものが売れますからお給料も上がります。そうすると勤続年数の長い人が当然それにあわせて賃金上がっていくので、年功序列型賃金っていうのが出てきたわけです。ところが、日本型雇用環境の前提条件は、この20年で崩れ去ってしまった。

日本の労働市場の特徴とは

◆労働経済学の知見を人事の実務に役立てるには?

宮本:労働経済学で私が一番大事だなと思うのは「雇用は生産の派生需要である」というメッセージです。あくまで雇用というのは、生産があって初めて生み出されると。何を意味するかというと、生産構造に影響する経済や社会のトレンドの変化は、働き方や雇用の在り方を変えてしまうっていうことなんですね。

岡田:現在、例えばデータサイエンティストってなかなか労働市場にいません。日本もすでにグローバル化、デジタル化で生産構造が変わって新しいタイプの労働が派生需要として生じているのに、そこに見合う人材供給がなされていないわけですね。そうすると今立ち上がるべきは日本の我々雇用者。構造変化に合わせて我々もスキルセットを変えなければいけないのですね?しかし、どうすればいいのでしょうか。若者はともかく中高年は?

宮本:私は政府のサポートが必要だと考えています。現在、求められているスキルセットは変わってきていて、今後もっと変わると予想される。リ・スキリングが必要になってくるわけです。企業ももちろん重要だからやるでしょうけど、労働者も個人のスキルを高めていかないとどこかで通用しなくなる。実際、シンガポールやフランスは人生のあらゆるステージで、人々がスキルアップできるような補助金とか出しているんですね。

岡田:企業人事の視点で、労働経済学の知見を実務に活かす際のヒントみたいなものはありますか?

宮本:労働経済学は人々の働きと関係するものなので、役立つことは多いと思います。例えば、コロナ禍で注目されているテレワークについて近年、研究が進んでいます。スタンフォード大学のニコラス・ブルーム教授らは中国のコールセンターで実証実験を行った結果、テレワークを導入すると生産性が1割以上も上昇することを示しています。理由は、コールセンター業務はあまりチームワークも関係なく、直接的に労働の成果も測りやすいからだと分析されています。他の研究ではクリエイティブな仕事はテレワークで生産性が伸びるのに対して、ルーティンワークは横ばい、もしくは下がるという報告もあります。海外では、テレワークで望ましい効果が出るケースでは労働時間が自主的に管理されていることが条件というデータが出ています。

岡田:わかりやすいです。テレワークをより効果的に活用して生産性を上げたいときに活かせますね。

宮本:職場のジェンダー平等についても、アメリカのピーターソン国際経済研究所が世界の90カ国以上2万社を調査し、女性管理職が3割を超えている企業とそれ以下の企業は利益が15%くらい違うということを明らかにしています。こういうエビデンスは企業の方が戦略を立てる上で役立つと思います。
あとは「経済学をやっていると株でもうかりますか」という質問よくされるんですね。その際は「儲かっていたら経済学者やめていますよ」とお答えしています(笑)。では、経済学は役に立たないかというとそうではなくて、向こう1~2か月の動きを完全に当てるのは難しいのですが、、勉強していると5~10年とか長いスパンでどういった方向に国が進んでいるのか、経済が動いていくのかは見えてくるんですね。そうすると、どの方向にビジネスチャンスがあるのか、これからどういったスキルを身につける必要があるかがわかるので、実務家の方は経済学を知っていると役に立つと思います。

岡田:現在企業の人事部門は、同一労働同一賃金、非正規の問題、兼業・副業、ダイバシティなど考えなければいけない課題がたくさんあります。特にこのキーワードはしっかり向き合ったほうががいいというのは何でしょうか?また、最後に人事担当者へのメッセージをお願いします。

宮本:あえて一つあげるなら人事評価です。もちろん、みなさん独自に素晴らしい制度をお持ちだと思いますが、コロナ禍でのテレワークに関する様々なアンケート調査を見ると、管理職の方は「部下がさぼっていないか心配」、「どう評価していいかよくわからない」、部下の方は「上司が見ていないので正当に評価されているか不安」といった回答が多いことが共通しています。つまり、今の評価システムはテレワークみたいな働き方を評価できなくなっています。
それは、日本では多くの企業がまだ年功賃金ベースで、賃金が必ずしも労働のリンクしていないためです。毎年、労働者がマネージャーでターゲットを決めて、どこまで達成できたのかを相談しながら評価するという仕組みがなかったり、うまく機能していない場合もあると思います。そこがしっかりしていないと新しい働き方の評価は行いづらいですし、グローバル化が進んだときに海外から優秀な人材を引っ張ってこれなくなるので変えていく必要があると思いますね。
人事の方へのメッセージとしては、今、日本は大きくメガトレンドが変わっている中、労働市場、働き方も変わりつつあります。例えば、世界では第4次産業革命が進んでおり、新しいテクノロジーを上手く活用できると、ものすごく大きなベネフィットが得られます。日本経済、労働市場は大きな岐路にたっています。ぜひポテンシャルを活かせるようなプラスの方向で人事や働き方が変わっていくと良いと思います。

岡田:ポテンシャルの発見って大事ですね。ありがとうございました。以上で終了します。

労働経済学の知見を人事に活かすには