この国は現在どのような状態にあるのでしょうか。私たちビジネスパーソンにとって、所属する業界や団体、企業の枠組みを超え、俯瞰的視野で現状を整理してみることが必要な時代なのかも知れません。

コロナ禍で生活が一変し、ロシアによるウクライナ侵攻という歴史的転換点に直面している現状です。日本でも、労働の不安定化による生活の安全の破壊、格差問題という名目で覆い隠された貧困化、ポスト工業化社会に不適合となった社会保障制度の持続不可能性など多くの「社会問題」が噴出しています。こうした現状を一層深刻化させているのが、こうした「社会問題」が隠しがたいものとなっているにも関わらず、政治や行政が長期的視点に立った抜本的な解決策を実施することはおろか、構想することさえもできていないということです。混迷する現在において、私たちビジネスパーソンはどのような軸(視座)を獲得し、未来を構想したらよいのでしょうか?

今回の特集3では、『代表制民主主義はなぜ機能しないのか』を上梓されました東京医科歯科大学 教授の藤井達夫先生にお話を伺います。

(編集長:岡田英之)

東京医科歯科大学 教授 藤井 達夫 氏

ゲスト:東京医科歯科大学 教授 藤井 達夫 氏

1973年岐阜県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科政治学専攻博士後期課程退学(単位取得)。同大学院非常勤講師などを経て2022年から東京医科歯科大学教授。専門は、西洋政治思想および現代政治理論。近年の研究の関心は、現代民主主義理論。著書に『<平成>の正体 なぜこの社会は機能不全に陥ったのか』(イースト新書)、『日本が壊れる前に』(亜紀書房、共著)がある。新刊『代表制民主主義はなぜ失敗したのか?』(集英社新書)などがある。

代表制民主主義はなぜ失敗したのか

未来を構想する軸(視座)の獲得をめざして~閉塞感よりも開放感、絶望よりも希望が満ちた社会とは?~

岡田英之(編集部会):本日は、東京医科歯科大学の藤井達夫先生にお越しいただきました。藤井先生は、今回2回目のご登壇ですね。早速ですが、今絶賛発売中の『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』のご紹介からお願いします。まずは「代表制民主主義」の意味について解説いただければ幸いです。

◆米国、ヨーロッパ、日本で民主主義がうまくいっていない

藤井 達夫(東京医科歯科大学教授):拙著の宣伝をしていただいて、ありがとうございます。『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』は、タイトルのとおり代表制民主主義がキーワードです。皆さんも、学校の授業で「直接民主制」と「間接民主制」の説明は聞かれたことがあると思いますが、代表制民主主義とは間接民主主義のより専門的な言い方だと理解していただいてよいと思います。

岡田:今回、この本を出された理由は何だったのでしょうか?

藤井:今、日本だけではなくヨーロッパやアメリカでも、代表制度のもとでの民主主義がうまく機能していないんですね。例えば、トランプ前大統領のときのアメリカの代表制民主主義は、まぁ誰が見ても酷いものでした。最終的にはトランプ支持者による議会の占拠という、アメリカ史上類を見ない蛮行で幕を下ろすことになりました。
ヨーロッパに目を向けてみれば、ポピュリズム政治がノーマルな状態になりつつあります。左派右派ありますが、とりわけ移民を排斥する過激な主張を掲げる右派ポピュリズム政党が近年も注目を浴びてきました。政治学では、ポピュリズムというのは、代表制民主主義の病理的な状況といわれます。つまり、現在の民主主義はどうもうまくいっていないんですね。

岡田:世界的に民主主義政治がうまくいかなくなっているのですね。

藤井:現在の民主主義はかつてない脅威にさらされています。内部からの弱体化と同時に外部からの脅威にもさられている。後者の脅威というのが、中国です。中国的な統治は権威主義体制と呼ばれます。ロシア、トルコもそうですが、とりわけ中国の場合、選挙ではなくて中国共産党のリーダーが業績重視の選抜制度で選ばれることが特徴です。すなわち、メリトクラシーです。この選挙によらない能力・業績に基づく政治、これはもしかしたら成功しているのかもしれないと、人々の見方に影響を及ぼしていますし、今後も影響が強くなっていく可能性がある。

岡田:なるほど。

藤井:そうした民主主義の諸国がうまくいっていないなか、代表制度のもとでの民主主義とは一体どういうものだったのか?根本から遡って考えていかないといけない。そのためにはまず代表制度と民主主義を切り離して考えることが必要です。実は「選挙こそ民主主義」という理解が一般にありますが、代表制度の根幹にある選挙と民主主義は、本来は何も関係がないという指摘からこの本は出発しています。

岡田:選挙と民主主義は関係なかったのですか?

藤井:民主主義は、古代ギリシャのアテナイで紀元前500年頃に始まりますが、アテナイの民主主義はくじ引きによって行われていました。一部選挙もありましたが、くじ引きで決めるのがその特徴でした。そのあとしばらく民主主義はヨーロッパの政治舞台からは忘れ去られ、近代のアメリカの独立革命、フランス革命を通じて再び民主主義が復活していきます。その過程で選挙を基盤とした代表制度と民主主義は、突然結びつくのです。

代表制民主主義とは

◆コロナ禍で注目される中国の統治モデル

藤井:そもそも代表制度とは、貴族政治に適したものだったんですね。それが近代以降、なぜ民主主義と結びついたのかを、拙著では歴史的および理論的視点から説明しつつ、20世紀にかけて代表制度と民主主義との結婚がうまくいく条件が存在していたことを指摘しました。しかし、その条件は現在の社会では消失してしまいました。条件が消失した以上、制度は機能するはずがない。20世紀の中葉に黄金期を迎えた代表制民主主義は黄昏時にさしかかっている。だから、代表制民主主義をそろそろバージョンアップする時期ではないか。ちょっと駆け足になりますが、こんな内容の本です。

岡田:コロナ禍になって3年目。各国のコロナ対応が良い悪いと議論もされてきました。先生のお話にあったように中国モデル。どうやら権威主義の国の方がコロナ対応がうまくいっているんじゃないかという意見も聞かれます。身近なところから「どこか日本の政治っておかしい」ということが暴露されてきたように思います。

藤井:日本がうまくいっていない、というのはおそらく平成を通してずっと多くの人が感じていたと思うのです。それがコロナ禍で目に見えて顕在化してきました。例えば、デルタ株が流行ったときに東京、大阪などで自宅療養しながら死んでいく人たちが増えた。我々の国って何なんだと感じた人は多かったでしょう。経済の問題に関しても、第4波、5波、6波の話もいろいろ予測ができるのに対策が十分でないと疑問を持った人は多いと思います。

岡田:そうですね。

藤井:私は政治の役割は大きく3つあると思うんです。一つは経済的な問題、つまり「豊かさ」です。憲法でいう健康的文化的な最低限度の生活ができるかどうか。2つ目が「安全」。国内の安全、すなわち治安、あるいは安全保障上の他国との関係における「安全」。3つ目が、我々民主主義諸国においておそらく一番重要な「自由」です。自由にもいろいろあります。経済活動の自由、所有権の自由、表現の自由、政治参加の自由などなど。いずれにせよ、これら3つをどう両立させるかが常に重要な課題なんですね。

岡田:豊かさ、安全、自由ですね。

藤井:その通りです。中国の場合、コロナ禍でまるまる都市を封鎖しました。オリンピックもなかなか強制的な手段をとっていたらしい。こういう情報が流れる中、「中国の方がうまくいっているんじゃないか?」と感じる人たちが少なくありません。中国の社会は、我々の社会と何が違うかというと、自由を犠牲にしてでも安全と経済的豊かさを追求するところです。
一方ですね。民主主義諸国においても、実は長い時間をかけて、この自由がかなりないがしろにされてきたのです。日本でも新自由主義的な政策が長くとられるなか自由が特権化しました。自由というのが、競争に勝った、ある一部の人の特権になってしまったんですね。

岡田:自由は、もう特別な一部の人のものになった。

藤井:私と同世代のロスジェネの非正規の人たちからすれば、家族をもてない、車も買えない、家も買えない。そういう人たちにとって、自由なんていうのは二の次になるんです。若者もそうです。自由が特権化した社会では「せめて安全はちゃんと維持してくれよ、豊かさを保証してくれよ」という機運が高まります。こうした要望を持つ人たちにとって、メルトクラシ―に基づく中国的な統治モデルは魅力的に見える可能性が高い。我々の社会が難しいのは、自由と安全、豊かさをどう両立させるかが常に問われるところです。コロナ対策でも我々は、法律上、ある都市を完全に封鎖することはまずできない。そのような中、自由が特権化してしまった社会に暮らす多くの人が中国モデルに憧れ始めている。そういう主張をしています。

◆「コモンズ(共有なもの)」という経済思想の登場

岡田:本の166P。ポスト工業化社会の転換と新自由主義によって代表制民主主義の黄金期を支えた条件が喪失した、とあります。これ自体は日本に限らず起こったと思いますがどこで間違ってしまったんでしょうか?

藤井:工業化社会ってそもそもどういう社会かというと、まずモノを作る工場が中心にある社会です。そこで大量の労働者が画一的な生産に従事します。そういう社会の焦点とは、経済的な問題、富をどう分配するかです。そこで労働者の利益を代表する政党と、経営者や資産家の人たちの利害関心を代表する政党が、彼らが直接殴りあわなくてもすむように交渉と妥協によって分け前を決める。社会が非常に単純な2つの集団にわかれていたんですね。社会の利害関心が経済=物質的なものに収れんし、二つの大きな集団が保守・革新政党によって代表されることを可能にした工業化社会において、代表制民主主義は黄金期を迎えます。

岡田:2つの大きな集団の中に、個人が包摂されていたわけですね。

藤井:しかし、1970年代のオイルショックを通してアメリカ、ヨーロッパは製造業中心の工業化社会から知識情報、サービスを中心とするポスト工業化社会へ転換を迫られます(ポスト工業化)。また、工業化の成功ですでに豊かになっていた社会では、人々の関心は、経済的な面から環境とか文化的なものに拡張しています(脱物質主義化)。こうして、社会は大きな集団によって構成される社会から小さなクラスター的な集団からなる社会へと徐々に変わっていきます。すると人びとのニーズは多様化し、政治争点も複雑化していきます。こうして、代表制民主主義がうまく機能する条件が少しずつ消失していきました。

岡田:ポスト工業化で労働者の人達が消滅し多様化してしまったと。以前はうまく集団に包摂されていた個が放り出されちゃってむき出しになって、もうどうしていいかわからない。そんな状況ですかね?

藤井:そう思います。今は工場で働く労働者にも非正規の人、期間工、正社員がいて労働条件も待遇も異なります。労働者といってもまとまれるはずがないのです。さらに重要なことをご指摘されましたが、個人がむき出しになっているのです。
組織に所属した方ならわかると思いますが、人間というのは個で存在する場合は非常に弱い。組織に入って安全が保証されることで、初めて大きな力を発揮します。今の社会は、集団から放り出されたむき出しの脆弱な個人で溢れかえっているのですね。

岡田:最近メディアで、斎藤幸平さんなどの「新しい公共、コモンズ」という議論をよく聞きます。コモンズとは何か?ちょっとわかりにくいので、何をどうしたらいいかについて解説いただいてよいですか。

藤井:コモンズを日本語に訳すと「共有のもの」ですが、共有のものがなぜ必要かという解釈は、論者によって違います。私の場合、共有のもの=人々が自由であるために絶対必要なもの、として説明します。私は新自由主義的な統治のあり方が普及していくなか、共有のものが私物化されてきたと捉えています。

岡田:電気なんかも民営化されましたね。

藤井:良いか悪いかは別として、新自由主義の発展の中で、公共のものすなわち共有のものがどんどん民営化=私物化され、売買や所有の対象になりました。最終的には環境が私物化され、所有の対象になり始めた。そこに危機感を感じる人が増えてきました。例えば、水道が民営化=私物化されて国々で何が起きているのかというと、、水道代が高くなりすぎて、自由に水が利用できなくなり、結局、再び公営化しているわけですね。拙著では空気という例をだしましたが、こうしたものが私物化され、売買や所有の対象になりつつあります。すると、人々が普通に生きるための条件を奪うことにつながると。ちょっと立ち止まって何が共有されるべきで、何が市場を通した取引の対象として良いのか改めて考えよう、地球全体の問題として考えなければいけない、というところから出たのがコモンズという発想だと思います。

◆新しい資本主義、カール・ポランニーを読むビジネスマン

岡田:岸田内閣の新しい資本主義というフレーズが話題です。ビジネス界隈でも、カール・ポランニーの「大転換」という本が注目されています。ポランニーさんも、何でもかんでも民営化して市場原理に任せるといずれ破綻する。実は今の世界と同じようなことが歴史上何回も起こっていて、そのときには大転換しなければいけないと言っています。まさに新しい資本主義、転換点を迎えていると言っている本です。

藤井:そうなんですね。ビジネスコミュニティの人たちがポランニーを読むのは、すごく大事なことだと思います。さすがだなと思いました。ポランニーが言いたかったことを2つのキーワードで説明したいと思います。一つは「市場と社会の関係」です。そもそも市場は、アダム・スミスが言及したようないわゆる物を交換する場所でした。

岡田:スーパーみたいなものですね。

藤井:それが高度に複雑化されていくとマーケットになっていきます。市場はそもそも社会に組み込まれていた。ところが19世紀に何が起きたかというと、資本主義の発展のなかで市場が社会の規制から自立します。市場社会が誕生し、市場が社会を飲み込んでしまう。土地や労働、貨幣が商品化された結果、、社会の破綻が起きるんですね。

岡田:社会が破綻してしまうということですか。

藤井:はい、社会は無秩序な状態となり、人びとは安全に生きていけなくなります。もう一つのキーワードに「ダブルムーブメント」という言葉があります。人間の歴史には、二つの大きなムーブメントがあります。一つは自由放任。近年の例で言えば、1980年代以降、多くの資本主義諸国では規制を撤廃しましょう、市場を市場原理に基づいて運営しましょう、国家の介入を減らしましょうという流れが進みました。これが新自由主義化ですね。市場化が行き過ぎると、必ず反動が起きます。すなわち、市場を規制し、社会の中に再度埋め込もうとする動きが生じます。これがダブルムーブメントというポランニーの考え方です。

岡田:必ず反動は起きるものでしょうか?

藤井:ポランニーはそう考えているようです。あまりにも規制緩和をしすぎて社会が崩壊しそうになる。すると社会が市場を規制によってコントロールしようという動きが必ず出ています。世紀古典的な自由主義経済政策も社会を破綻させたのですね。それで市場を社会に埋め込もうという運動が起きた。その代表例がケインズ主義。国家と社会を一体化しようとしたファシズムもその一例ですね。

岡田:ここでファシズムが出てくるのですね。

藤井:当然、ファシズム、より正確に言えば、全体主義には問題がある。ケインズ主義は、昔の言葉でいえば修正資本主義というかたちで規制を通して市場を管理していくという流れですね。今は、もう一度市場を社会がコントロールしよう、社会に市場を再度埋め込もうという動きが起きている。これが新しい資本主義と岸田さんが呼んでいるものだと思いますよ。

岡田:なるほど。アダム・スミスの「神の見えざる手」。基本的に市場原理に任せれば自動調整機能が働いてうまくいくみたいな考えが、そうでもないという現象がここ20年くらい出てきた。もう1回規制をかけるというと何か後ろ向きですが、公共性と資本主義がうまくバランスを取りながら仲良く共生するイメージでいいですか?

藤井:それで良いと思います。今コモンズを主張する人たちの中には資本主義自体をやめなければという人もいます。が、社会と市場とのより適切な関係を模索する、関係性をもう一度検討しなおしましょうという考え方もあります。大事なのはどういう社会を私たちが目指しているのかということです。

新しい資本主義・・・カール・ポランニーなど古典に学ぶビジネスパーソン

◆人事担当者へのメッセージ

岡田:先生はご専門ではありませんが、雇用の問題をお聞きしたいと思います。最近よく言われるのがジョブ型雇用、メンバーシップ型雇用、同一労働・同一賃金、ギグワーカー、ブルシットジョブ…共通しているのは何かすごく脆弱化している。雇用社会が多様化すればするほど脆弱化して不幸になっていくイメージがあるのですが、政治学者としての立場からはどうでしょうか?

藤井:政治学者の立場としては、雇用の問題は公正さや民主主義的な価値に関わってきます。人々が生きるうえでの基本になることですから。公正な社会、あるいは民主主義的な価値が実現された社会はどうあるべきなのかを含めて考えなければいけない。
よく、日本はまだまだヨーロッパやアメリカに比べて労働市場の流動化が低いという意見があります。

岡田:言われます。

藤井:経済的な合理性からすればそれはわかります。企業において一番問題になるのは人件費ですから。労働者の首を切りやすくするのは合理的です。ただ先ほど申し上げたとおり、その労働の賃金によって人々は生きています。簡単に首を切られればまともに生きていけなくなります。それは自己責任だから、野垂れ死にしても仕方ないよね、という主張は、私たちの社会の民主主義的な価値とは相いれません。だとするならば、雇用政策の問題はたんに経済合理性の問題としてではなく、私たちの社会が全体としてどうあるべきかという規範的な問題として考えていかなければいけない。
例えば、首を切られたときに、しっかりとしたセーフティー・ネットがあるか?首を切られて、再就職を目指す際に、再教育制度が公的な形で整えられているか?ステップアップするために専門的な教育を受けられる制度などが誰の手にも届く形で整っているか?必要があればそれらを利用することで、尊厳をもって自由に生きることが保障されているのか?この観点から言えば日本は遅れています。ただ雇用の流動化、経済的合理性だけを追求して労働者の首を切りやすくするだけでは、で民主主義的な価値が実現された公正な社会にはなりません。

岡田:今、ビジネス界隈ではカール・ポランニーをはじめ、ルソー、ジョン・ロックなどの哲学書も売れています。経営学という分野の歴史が浅いこともあって、歴史から学ぶ、哲学から学ぶなど、リベラルアーツが注目されています。問題はそこから先で、ルソーの『社会契約論』は文庫化されているので安く買えますが、ペラペラと読んでみると、まぁ10ページくらい読んだら疲れちゃうわけです。我々ビジネスパーソンは ジョン・ロックとかルソーの本、どういう読み方をすればよいのですか?実際手に取ってみると、私など10ページも読むともう汗だくですよ。というか疲労困憊です。

藤井:全くそのとおりだと思います(笑)。しかし、ビジネスパーソンたちがそうした古典に返る、あるいは教養というものに目を向ける。今お話を聞いていて、何て言うんですかね、今日お話できてよかったなあと思いました。やはりこういう先が見えないときに役立つのが教養です。ただ問題は、教養はそのまま役立つわけじゃないんですね。

岡田:ルソーはまだいいんですけど、ジョン・ロックは何かもうわからないです。

藤井:ジョン・ロックは17世紀の人ですから、問題関心も違えば、使っている言葉も違います。今から考えると、非常に無駄の多い文章のようにも見えます。5~10分読めるだけでもすごいと思います。では、どうやって読めばいいかというと、専門家と一緒に読むのが一番いいと思いますね。
先が分からない、これからどうすべきなのか、日本の社会をどう良くしていくのかと考えるときに、頼りになるのは、やはりジョン・ロック、ルソー、アダム・スミス、マルクスあるいはハイエクなどの人たちです。そうした人の書物を読むビジネパーソンが多くなればなるほど、日本の未来は明るいと思いますよ。心からそう思います。そういうことで役に立つことができれば、何でもやりたいと思っています。

岡田:藤井先生はじめ専門家の方にお力を借りて、ビジネスパーソンがそういったものを読む。たしかに、自分ひとりで読んでも誤解もあると思いますし、生煮えになりそうです。

藤井:あと、やっぱり読むのが辛いと思います。スミスの『国富論』でさえ、200年以上前の本ですから。やはり専門家を使うことが大事で、おそらくそういうことを望んでいる専門家は多いと思います。世の中を動かしているのは、ビジネスを動かしている人たちで大学の教授ではありません。より多くのビジネスパーソンに自分たちの知識が役に立てばと思っている人は少なくないと思います。

岡田:最後に会員の人事担当者にメッセージをお願いします。

藤井:大学で若者たちを教えていますと、若者が社会にどう出ていくかというときに、人事の方の役割は非常に大きいと思っています。今は本当に先が見えないので、いろんな形で採用の仕方も変わっています。メンバーシップ型からジョブ型へと模索が続いています。実は大学もそうなんです。どうやって生き残っていくのか、様々な模索が続いています。おそらく、双方は同じような問題を抱えているはずですので、是非そうした問題について、、情報を共有し解決に向けて知恵を出し合うことができればと思っています。以上です。

岡田:ありがとうございます。以上で収録を終わります。

未来を構想する軸(視座)とは